一方、開城したその日に関ヶ原の戦いが起こり、西軍の敗北となった。結局、高次の篭城により足止めされた毛利元康および立花宗茂らの軍勢は移動に時間がかかったため、関ヶ原に参陣することができなかった[11]。 関ヶ原の戦いの後、徳川家康は西軍の軍勢を大津に引きつけて関ヶ原へ向かわせなかった高次の功績を高く評価した。高次は井伊直政からの使者を受け、早々に高野山を下りるように伝えられる。初め高次はこれを断ったが、更に山岡道阿弥を送られ、それに弟の高知も加わった説得を受けて下山した。高次は大坂で家康に会い、若狭一国8万5,000石へ加増転封され、後瀬山城に入る。慶長5年10月に小浜に入り、翌年には近江国高島郡のうち7,100石が加増される。 大坂の陣を控えた徳川家康の命により、高次は新たに日本海と北川と南川に囲まれた雲浜に、二条城に似た小浜城を築き始めた。また、後瀬山の麓に残った城跡と武家の屋敷を町屋として街路を整備し、新たな街区を設けるなど、小浜の城下町を整備した。 家康からの信任も厚かったようで、以下の書状を受けている。御折紙 殊に生鮭到来祝着之至に候、将又其国之儀雖小国候、爰元手寄に候間、先進上候處、 御気に入御有付之由承候、左様候得者、弥令満足候、猶井伊兵部少輔可申候、 恐々謹言 十月十四日 家康 京極宰相殿 イエズス会の「一六〇一年度日本年報」には、高次および正室の初が受洗したとの記事がある[12]。1601年10月から1603年2月までの出来事を報告した「一六〇二年度日本年報」には「本年、我らの大いなる喜びとともに、京極マリア Qeogocu Maria の息子、若狭の殿である宰相殿 Saixodono がキリシタンになった。この日本のキリスト教界は、長年なかったあの平和を保っているので、あの(若狭)国でも、また彼の兄弟でキリシタンでもある修理殿 Xuridono の領する丹後でも、大きなキリスト教界が作られ、神の法が大いに宣べられるように」と高次の受洗を弟・高知の様子とともに明記している[13]。 家康は慶長7年(1602年)9月、ルソン総督宛朱印状で、外国人が外国の法(キリスト教のこと)を持ち込むことを禁止したが[14]、国内向けにも貴人の入信禁止を断言した。しかし同時期に家康は宣教師を介在させる必要のあるルソン貿易に取り組んでいたため、貴人の入信禁止令は厳格に守られなかった[13]。 京極家の改宗は公にはされていなかったようで、「一六〇三年度日本年報」には、「都の近くに、京極マリア Qiogocudono Mariaの人の息子がいる。各々一国を有し、彼らと彼らの奥方も洗礼を受けているが、公方様(徳川家康)を怒らせるのではないかという不安のためにそのことをあえて公表していない」とある[15]。 慶長14年(1609年)5月に47歳で没し、長男の忠高が跡を継いだ。高野山奥の院には大津城で討死した22名の家臣を供養する石碑が、慶長5年9月13日の日付と共に残っている。 京極氏は北近江の守護で本来は浅井氏の主筋に当たるが、臣下の浅井氏の下克上を受け、その力は大きく衰えていた。高次はその庇護のもと、浅井の居城内で生まれた。のちに妹(姉説も)・竜子(松の丸殿)が豊臣秀吉の側室となり、淀殿の妹の初(常高院)を正室とした。そのため彼女たちの七光りで出世したとされ、蛍大名と囁かれた。しかし決して無能な人物ではなく、大津城の戦いでは、居城の大津城に篭もって1万人を超える西軍の軍勢を食い止め、関ヶ原の戦いの主戦場へと向かわせなかった。戦後、その功により若狭一国を与えられて国持大名となり、弟・高知と並んで京極家を再興し、近世大名家としての礎を固めた。 黒田伊予と山田大炊は、その行動から重臣であったと考えられる。 他には大津篭城戦の9月1日に城下町を戦に備え焼いた者として 9月11日夜から12日夜明けまでに寄せ手に夜襲をかけ戦果を得た者として
若狭国主
人物
系譜
父:京極高吉(1504年 - 1581年)
母:京極マリア(1542年 - 1618年) - 浅井慶、養福院殿法山寿慶大禅定尼、浅井久政の次女
正室:常高院(1570年 - 1633年) - 初、浅井長政の娘
側室:山田氏
長男:京極忠高(1593年 - 1637年)
側室:小倉氏
男子:安毛高政
家臣
斉藤勝左衛門
若宮兵助
比良七左衛門
多賀孫左衛門
小川勝太夫
高宮半四郎
赤尾伊豆守
山田大炊
三田村出雲
三田村吉助
内田太郎左衛門
尼子外記
服部佐渡
鞍智伯耆
若宮平兵助
佐脇作左衛門