京成電鉄
[Wikipedia|▼Menu]
青(ライナーブルー)はグループの将来性と社会への貢献を、赤(ライナーレッド)は情熱と向上心を表している[7][6][8]

京成グループの中には新京成電鉄や京成タクシーホールディングス傘下に再編される前の京成直系のタクシー各社など京成電鉄の社紋をアレンジした社紋あるいは社章を持つ会社もある。ただし、新京成電鉄とかつての新京成タクシー、およびかつての佐倉交通(現・京成タクシー佐倉)の社章はいずれも京成の社紋の中心にSが入っているがそれぞれの形状が異なる(新京成電鉄は初代を基に変形させたS、新京成タクシーは初代を基に通常のS、佐倉交通は2代目を基に通常のS)。

初代社紋

現行2代目社紋

グループロゴ

(参考)新京成電鉄社章

歴史
会社設立から成田延伸まで

日本の鉄道会社は、有名な神社仏閣への参拝客輸送を目的として設立されたケースが少なくない。成田山新勝寺江戸時代から多くの参拝客を集めており、1897年(明治30年)に総武鉄道佐倉駅を起点として成田鉄道(初代)が開業すると、多くの参拝者が利用した。その後、1900年代に入ると全国的に電気鉄道ブームが起きる中で、東京成田を直結する電気鉄道が3者競願で計画されたが、後に3者は合同し1903年東京府東京市本所区押上 - 千葉県印旛郡成田町間を軌道条例によって出願。1907年5月28日に押上 - 成田・佐倉町宮小路 - 佐倉停車場について特許を得て、1909年6月30日に京成電気軌道株式会社を設立した。日露戦争後の経済不況のなかで株式募集は難航したといわれている。

1911年11月9日に第一期工事として押上 - 市川(仮・現江戸川駅西方)・曲金(現・京成高砂) - 柴又間を着工し、翌1912年11月3日に開業した(なお、この時市川へは渡船で連絡していた)。また、これに先立つ同年4月27日には帝釈人車軌道(柴又 - 金町間)を買収。すなわち、京成最初の営業路線は人車軌道であった。

1913年10月21日に改築が完成した柴又駅 - 金町駅間を開業させ、以後1914年9月1日に江戸川駅 - 市川新田駅(現・市川真間駅)間、1915年11月3日に市川新田駅 - 中山駅間、1916年12月28日には中山駅 - 船橋駅間と延伸を繰り返した。

船橋から先はまず県都千葉を目指すこととし、1921年7月17日に船橋駅 - 千葉駅(後の京成千葉駅、現・千葉中央駅)間が開業。当時の京成の千葉駅は現在の千葉中央公園の位置にあって、千葉市の中心部には省線千葉駅よりも近く、1935年昭和10年)7月1日に省線が電化されるまでは利用客数で圧倒的優位に立っていた。

1925年10月には本来の目的地・成田への延伸に着手。翌1926年12月9日津田沼駅 - 酒々井駅間、24日には酒々井駅 - 成田花咲町駅(仮駅)間を開業し、ここに東京と成田までが結ばれることとなった。なお、成田の駅の位置を巡っては新勝寺門前により近いところへの設置を画策して成田電気軌道(旧・成宗電気軌道)を買収(1925年)してその線路を接続する案もあったが、成田山門前の商店街の猛反発に折れ、1930年(昭和5年)4月25日に現在の位置に京成成田駅を設置した。
都心延伸から終戦まで

東京側のターミナル駅となっていた押上は、京成開業後発展していたものの、都心へは市電の乗り換えを必要とし、押上 - 浅草間の路線延長を計画した。しかし京成に隣接する東武鉄道隅田川を越えて浅草花川戸地区への路線延長を計画すると京成側でも、これを計画して東武との競願になった。そして、1928年(昭和3年)9月に京成が自社に有利になるように東京市会議員に働きかける中で不正資金供与に発展した京成電車疑獄事件が発覚し、社長・専務ら会社幹部が逮捕される事態となり、結果的に浅草延伸は断念に追い込まれた。

その後、日暮里 - 筑波に鉄道敷設免許を有していた筑波高速度電気鉄道を東武との競合の末に1930年(昭和5年)10月21日に吸収合併。その免許を利用する形で翌1931年(昭和6年)12月19日青砥駅 - 日暮里駅間、1933年(昭和8年)12月10日に日暮里駅 - 上野公園駅(現・京成上野駅)間を開業。念願であった都心延伸を果たした。また日暮里駅 - 上野駅間は上野公園下の地下線となったが、これは東京の郊外電車としては初のケースとなった[注釈 3]

この頃、1928年(昭和3年)4月7日には白鬚線向島駅 - 白鬚駅間)を開業した。白鬚橋を渡って三ノ輪橋王子電気軌道(現・都電荒川線)と結ぶ計画もあったが、上野延伸と引き換えの形で1936年(昭和11年)2月28日に廃止された。

また、1927年(昭和2年)8月21日には谷津支線(京成花輪駅〈現・船橋競馬場駅〉 - 谷津遊園地駅間)を開業したが、後に谷津海岸駅(現・谷津駅)からの道路が開通したために1931年10月27日に休止、1934年(昭和9年)6月22日に廃止されている。

創業時から兼業として電灯電力供給事業、その後バス事業や土地分譲、谷津遊園の開設などが行われていたが、昭和恐慌での経営不振の打開策として、東京電燈から千葉県及び茨城県の一部の電灯電力供給事業を譲受すべく交渉。1934年(昭和9年)11月9日に当事者同士での契約調印がなされたが、監督官庁の逓信省が認可しなかったため不成立に終わった。しかし、資金・人材の手当は済んでいたこともあり、ここから積極的な兼業展開を展開することとなる。1936年(昭和11年)には幕張に畜産加工工場を設立して「京成ハム」「京成ソーセージ」などの商品名で精肉加工肉製造販売や「京成シミトール」(湿布薬)などといった薬品を直営で販売[注釈 4]1938年(昭和13年)には帝都タクシーを設立、梅鉢車輛(後の帝國車輛工業)を系列化。1943年(昭和18年)にはセレベス開発鉄道を設立した。これ以外にも、百貨店経営や株式会社大日本東京野球倶楽部東京読売巨人軍の前身)への出資(筆頭株主であった)などが行われていた。

その後、太平洋戦争下の1942年(昭和17年)には電灯電力供給事業を関東配電株式会社(東京電力の前身)に譲渡。また陸上交通事業調整法の下で常磐線以南のエリアの統合中核企業とされたが、系列下にあった総武鉄道(2代)は東武に、城東電気軌道は東京市電に統合されたためバス会社の統合のみが行われた。この時総武鉄道(2代)を喪失したことが戦後新京成電鉄を設立する動機になったといわれている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:268 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef