京大天皇事件
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

天皇の来学に先立ち、京大吉田(本部)キャンパスでは、2,000人に上る学生・教職員などが正門近くの本部(時計台)前広場(画像参照)に見物(あるいは歓迎)に押しかけ、吉田分校(現在の総合人間学部キャンパス)の門前には縦3m・横2mに及ぶ「天皇へのお願い」と題された看板(冒頭の画像参照)が立てられた[2]。学生の多くは、予定されていた大学文化祭が延期されたことや警察の過重な警備への不満や、単に天皇を見たい不満という野次馬的気分から広場に集まってきたとされる。しかし、この時、正門外で突然毎日新聞社の車が「君が代」を流したため、これに対抗するように、学生の中から反戦歌「平和を守れ」の歌声が流れ、次第に大合唱となった。

騒然とした雰囲気の中、午後1時20分天皇は自動車に乗って到着し、進講のため本部の会議室に入った。進講者の一人であった瀧川幸辰によれば、この時天皇制廃止を記したプラカードを掲げた学生たちが正面玄関に殺到する行動があったという。反戦歌の合唱は天皇が建物の中にいる最中ずっと続けられた。大学当局は大学から出ていく天皇のために進路を確保するべく警官隊を学内に導入、天皇は警官隊の人垣を通って午後2時過ぎに京大を去った。この間、学生たちは天皇一行の出入りを遠巻きに合唱していただけで、特にこれを妨害せず、学生と警官隊との衝突はなかった。被害といえば植込みの松に学生が鈴なりになって見物したため、倒れてしまった程度だった[3]
学生の「公開質問状」

京都大学同学会は5か条からなる「公開質問状」を作成し、天皇に渡すことを計画していたが拒否された。「私達は一個の人間として貴方を見る時、同情に耐えません」で始まるこの質問状は、当時学生であった中岡哲郎(のち大阪市立大学教授)の執筆によるもので、先述のように現実の社会矛盾が取り繕われ隠蔽された中で天皇が多額の公費により巡幸を行っていることを悲しむとともに、米軍占領下での再軍備や朝鮮戦争が進行していた当時の情勢を踏まえ、日本が戦争に巻き込まれそうになった時の対応などを問う内容であった。
関係者の処分

何ら暴力的な事件が起こっていなかったにもかかわらず、翌11月13日衆議院文部委員会では、大学管理法案審議の過程で天野貞祐文相(元京大教授・元京大学生課長、戦前は瀧川事件に呼応した京大の学生運動に一定の理解を示していた)がこの「事件」に言及した。大学当局は15日に同学会の解散命令を下し、17日には同学会幹部8名の無期限停学処分を発表した。来学当日、群集整理に協力しむしろ混乱を鎮める側に回っていた同学会に厳しい処分が下されたのは、先述した公開質問状の内容と、それに対する世論の反発(後述)を考慮したことによるものと考えられている(解散された同学会は1953年に再建された)。

11月26日には衆議院法務委員会に服部総長と同学会委員長が喚問される事態となり、政府(第3次吉田内閣)および与党自由党はこの事件をきっかけに大学への警官の自由な立ち入りを認めさせようと画策した。また京都地検は公安条例違反による関係者の起訴を考えていたが、関係者を取り調べた結果、条例に違反するような事件は発生していないとみなし立件を断念した。
当時の反応

この事件と同じ1951年、同学会を中心に京大生が企画・開催した「綜合原爆展」は盛況を呼び、京都市民から好意的に迎えられていた(「質問状」でも天皇の原爆展参観を要望している)。しかしこの事件に関して京大生や同学会に対する好意的反応は少数派であり[4]、「京大を廃校にせよ」「貴方たちは狂人ですか」といった非難が集中した。例えば京都新聞は11月13日付で「天皇への無礼と京大の責任」との論説で学生側を強く非難した。
事件を扱った作品
城山三郎『大義の末』1959年
「公開質問状」執筆者の中岡哲郎とほぼ同世代の作家である城山の自伝的小説。質問状の内容について言及がある。
脚注^ 京都大学百年史編集委員会『京都大学百年史 : 総説編』(1998年)p.546-551
^ 冒頭画像の通り、正確には「願」と題され「神様だったあなたの手で我々の先輩は?場〔「?」は「戦」の略字〕に殺されました。 / もう絶対に神様になるのはやめて下さい。 / 「わだつみの声」を叫ばせないでください。 / 京都大学学生一同」( / は改行箇所)とある。後述の「公開質問状」とは内容・文面が異なる。
^ 京都大学百年史編集委員会『京都大学百年史 : 総説編』(1998年)p.549
^ 事件後、作家野間宏は同学会宛にメッセージを寄せ、学生たちの「行動の正しさ」を讃えている。

関連文献

井ケ田良治, 原田久美子『京都府の百年』山川出版社〈県民100年史〉、1993年。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 4634272601NDLJP:13133163。https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002308695。 

京都民報社『戦後京都のあゆみ』かもがわ出版〈かもがわ選書〉、1988年。ISBN 4906247423NDLJP:13132339。https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001951505。 

河西秀哉「1950年代初頭における象徴天皇像の相剋:京都大学天皇事件の検討を通じて」『日本史研究』第502号、京都 : 日本史研究会、2004年6月、1-27頁、ISSN 03868850、国立国会図書館書誌ID:7003301。 

河西秀哉「敗戦後における学生運動と京大天皇事件:「自治」と「理性」というキーワードから」『京都大学大学文書館研究紀要』第5巻、京都大学大学文書館、2007年1月、17-36頁、CRID 1390009224839568896、doi:10.14989/68871、hdl:2433/68871、ISSN 1348-9135。 

京都市(編) 『京都の歴史 第9巻:世界の京都』 京都市史編さん所、1976年

京都大学百年史編集委員会, 京都大学『京都大学百年史』京都大学後援会、1997年。hdl:2433/152877。https://hdl.handle.net/2433/152877。 

同 『京都大学百年史:資料編2』 京都大学後援会、2000年

「公開質問状」の全文、同学会の声明、京大当局による同学会解散命令などを収録。


松尾尊~ 『国際国家への出発』 集英社、1993年 ISBN 4081950210

同 『昨日の風景:師と友と』 岩波書店、2004年 ISBN 4000225340

関連項目

京都学連事件 - 1925年に始まる、京都大学などの学生運動に対する治安維持法事件。

滝川事件 - 1932年、京大法学部教授に対する言論弾圧事件。

綜合原爆展 - 1951年、京大同学会が主催した一般市民向け展覧会。

荒神橋事件 - 1953年立命館大学(広小路キャンパス)でのわだつみ像歓迎集会に合流しようとした京大の学生デモ隊と警官隊が荒神橋上で衝突した事件。

第2次滝川事件 - 1955年、京大総長と学生運動との衝突事件で、同学会は再び解散処分を受けた。

中岡哲郎 - 天皇への公開質問状を執筆。

大島渚 - 当時の京都府学連委員長(京大法学部在学)でのちの映画監督。

菊タブー

外部リンク

大原社研_大原クロニカ『社会・労働運動大年表』解説編「京大天皇事件」










京都大学
学部

総合人間学部

文学部


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:44 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef