南北朝時代の南朝においては、京兆郡の本土が北朝の統治下にあったため、僑郡の京兆郡が置かれた。 東晋のときに襄陽に置かれたが、朱序が前秦に降ると、失陥した。386年(太元11年)に再び設置された。南朝宋の初年、京兆郡は藍田・鄭・池陽・南覇城・新康の5県を管轄していた。457年(大明元年)、盧氏・藍田・覇城の3県を分離した。京兆郡は杜・ケ・新豊の3県を管轄した[7]。南朝斉のとき、京兆郡はケ・新豊・杜・魏の4県を管轄した[8]。 417年(義熙13年)、東晋の劉裕の北伐が成功して、長安周辺を回復すると、北京兆郡が置かれた。418年(義熙14年)、夏の赫連勃勃に長安を奪われると、北京兆郡は失われた。南朝宋の景平年間に再び置かれた。南朝宋初の北京兆郡は北藍田・覇城・山北の3県を管轄した[7]。 東晋の末年、三輔の流民を集めて漢中に西京兆郡を僑置された。南朝宋のとき、西京兆郡は秦州に属し、杜・藍田・?の3県を管轄した[7]。南朝斉のときには京兆郡と称し、杜・藍田・?の3県を管轄した[8]。 南朝斉のとき、梁州に京兆郡が置かれた[8]。 魏(咸熙2年、紀元264年)
雍州の京兆郡
北京兆郡
西京兆郡
梁州の京兆郡
脚注^ 『三国志』魏書武文世王公伝
^ 『三国志』魏書三少帝紀
^ 『晋書』地理志上
^ 『魏書』地形志二下
^ 『隋書』地理志上
^ 『旧唐書』地理志一
^ a b c 『宋書』州郡志三
^ a b c 『南斉書』州郡志下
表
話
編
歴
三国の行政区分
野王郡