京兆郡
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244年正始5年)、秦国は京兆郡にもどされた[2]

のとき、京兆郡は長安杜陵覇城藍田万年新豊陰盤の9県を管轄した[3]

北魏のとき、京兆郡は長安・?山北・新豊・覇城・陰盤・藍田の8県を管轄した[4]

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、京兆郡は廃止されて、雍州に編入された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、雍州は京兆郡と改称された。京兆郡は大興・長安・始平武功??醴泉上宜・?・藍田・新豊・華原宜君同官・鄭・渭南櫟陽高陸三原雲陽富平華陰の22県を管轄した[5]

618年武徳元年)、唐により京兆郡は雍州と改められた。713年開元元年)、雍州は京兆府に昇格した[6]
僑置京兆郡

南北朝時代の南朝においては、京兆郡の本土が北朝の統治下にあったため、僑郡の京兆郡が置かれた。
雍州の京兆郡

東晋のときに襄陽に置かれたが、朱序前秦に降ると、失陥した。386年太元11年)に再び設置された。南朝宋の初年、京兆郡は藍田・鄭・池陽・南覇城・新康の5県を管轄していた。457年大明元年)、盧氏・藍田・覇城の3県を分離した。京兆郡は杜・ケ・新豊の3県を管轄した[7]南朝斉のとき、京兆郡はケ・新豊・杜・魏の4県を管轄した[8]
北京兆郡

417年義熙13年)、東晋の劉裕の北伐が成功して、長安周辺を回復すると、北京兆郡が置かれた。418年(義熙14年)、赫連勃勃に長安を奪われると、北京兆郡は失われた。南朝宋の景平年間に再び置かれた。南朝宋初の北京兆郡は北藍田・覇城・山北の3県を管轄した[7]
西京兆郡

東晋の末年、三輔の流民を集めて漢中に西京兆郡を僑置された。南朝宋のとき、西京兆郡は秦州に属し、杜・藍田・?の3県を管轄した[7]。南朝斉のときには京兆郡と称し、杜・藍田・?の3県を管轄した[8]
梁州の京兆郡

南朝斉のとき、梁州に京兆郡が置かれた[8]
脚注^三国志』魏書武文世王公伝
^三国志』魏書三少帝紀
^晋書』地理志上
^魏書』地形志二下
^隋書』地理志上
^旧唐書』地理志一
^ a b c宋書』州郡志三
^ a b c南斉書』州郡志下










三国の行政区分

 (咸熙2年、紀元264年)

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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