享保の大飢饉
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福岡城下では、1732年7月4日に崇福寺東長寺で死者の追福と五穀豊穣を祈る祈祷が行われたほか、博多の商人が義援金を募り、西町浜(現・福岡市博多区神屋町)の荒木屋で施粥を行った[2]。福岡城下には、餓死者を追悼する飢人地蔵が福岡市中央区南公園[5]や博多区中洲[8]などに残るほか、施粥を求めて海浜部に向かった農民が歌ったという民謡が近代まで残っていた[2]

なお、江戸においても被害があり、この飢饉の死者の供養のために隅田川花火大会が始まったという言説が広く流布しているが、これは俗説で、享保の大飢饉と隅田川花火大会は無関係である[9]
サツマイモの普及

凶作の被害が深刻であった瀬戸内海沿岸地域にあって、大三島だけは下見吉十郎がもたらした甘藷(サツマイモ)によって餓死者を出すことはなく、それどころか余った米を伊予松山藩に献上する余裕があった。九州地方でも、島津氏の薩摩藩領のみは飢民が生じなかったといわれる[1]。60歳という高齢で勘定役から大森代官(石見銀山および備中国備後国に散在する天領の管理)に抜擢された井戸正明(井戸平左衛門)は窮民救済のため数々の施策をおこなった幕僚として知られ、飢饉対策の作物としてのサツマイモの効能にもいち早く気づき、「芋代官」と称された[4]

徳川吉宗も以外の穀物の栽培を奨励し、試作を命じられた青木昆陽らによって小石川薬園吹上御苑で甘藷栽培を行い、やがて東日本各地にも甘藷栽培が広く普及した[4][10]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 飢饉に見舞われた西国諸藩があえて幕府に少なく報告したとする説があり、そのため実際にはもっと多い可能性がある。19世紀初頭成立の『徳川実紀』や『徳川十五代史』では餓死者96万9900人としているが、この数字は過大である[4]
^ 民謡に歌われた荒戸は、近代以降の埋め立てで内陸になっている。

出典^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 衣笠(1979)p.552
^ a b c d e f 三宅酒壺洞「享保の大飢饉-飢えと病気で死者続出」福岡市市長室広報課・編『ふくおか歴史散歩』第二巻 福岡市 1983年 P.99-100
^ a b c 奈良本(1974)pp.276-277
^ a b c 奈良本(1974)pp.235-238
^ a b “福岡市 南公園飢人地蔵菩薩”. 2022年8月7日閲覧。
^ 奈良本(1974)pp.282-283


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