享保の大飢饉
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1765年明和5年)に成立した福岡の地誌『石城志』は、1732年の2月から雨が続き、麦が半分腐って熟さないまま、5月まで雨が降り続いたと記録している[2]

閏5月にはコメが実り始めて農民を喜ばせたが、6月半ばになると害虫が「田地の水に浮いて川に流れ出るに、水の色も変ずるほど也」と『石城志』が記録するほど大発生した[2]梅雨からの長雨が約2か月間にも及び、冷夏をもたらした[3]上に、ウンカなどの害虫が稲作に甚大な被害をもたらし、蝗害として記録された[1][3]

冷夏と害虫により中国四国九州地方西日本各地が凶作に見舞われ、とりわけ西海道(九州地方)の被害が深刻であり[1]瀬戸内海沿岸一帯もまた甚大な被害を受けた[3]

被害は西日本諸のうち46藩にも及んだ。46藩の総石高は236万石であるが、この年の収穫はわずか27パーセント弱の63万石程度であった。餓死者は1万2000人にも達した[1][注釈 1]。また、幕領内67万人、諸藩は197万人、あわせて250万人強の人々が飢餓に苦しんだといわれる[1]江戸大坂京都伏見奈良大津長崎などの各都市に流入した窮乏民も多かった[1]福岡藩領内では、1731年の冬から1732年の夏にかけて疫病が流行したこともあり[2]、施粥などを求めて福岡城下に流入した農民が多数行き倒れ、約10万人が餓死した[5]

享保・天明天保の三大飢饉については、名古屋浮世絵師小田切春江が『凶荒図録』を著し、諸書を引用しながら被害の惨状と逸話を図入りで紹介している。『凶荒図録』には、身なりも立派で金100両を持っていた人物が路傍で餓死した事例も紹介されている[6]
対策・影響
経済対策

1733年(享保18年)正月、飢饉による米価高騰に困窮した江戸市民によって享保の打ちこわしが起こった[1]。これには窮民2, 3000人が参加する大規模なものであった[1]江戸幕府第8代征夷大将軍徳川吉宗は、本百姓の保護のため、これまで米価引き上げ政策を続け、米市場にも介入していたが、米価高騰のため食糧を入手できない人が増えたため、従来の方針を改め、非常手段として米価引き下げ政策に転じた[1]。幕府は、大名に対しては金銀の貸与・在府諸役の免除・参勤交代の緩和などの措置をとって被害の緩和に努め、民間に対してはコメの買い占めを禁止して囲米の強制的な放出、酒造制限などをおこなった[1]。福岡藩では年貢増徴による財源確保が不可能になったため、運上金冥加銀の納付を条件に商人の株仲間を認めた。1740年元文5年)11月、福博の商人が年1貫目の運上銀の納付を条件に米大豆相場所の開設許可を申請し、博多米会所が開設された。博多米会所では各地のコメの先物取引が行われたほか、各地の米価や災害などの相場の情報が集まった[7]
救済と慰霊

つんなんごう、つんなんごう、荒戸の浜までつんなんごう
- 施粥を求めて海浜部に向かった農民が歌った民謡[2]
荒戸に近い[注釈 2]荒津の海浜部

吉宗は富裕な町家や寺社には飢餓民救済を促し、蝗虫予防薬の販売推進や蝗害除去の祈祷もおこなわせている[1]。福岡城下では、1732年7月4日に崇福寺東長寺で死者の追福と五穀豊穣を祈る祈祷が行われたほか、博多の商人が義援金を募り、西町浜(現・福岡市博多区神屋町)の荒木屋で施粥を行った[2]。福岡城下には、餓死者を追悼する飢人地蔵が福岡市中央区南公園[5]や博多区中洲[8]などに残るほか、施粥を求めて海浜部に向かった農民が歌ったという民謡が近代まで残っていた[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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