交響曲第8番_(マーラー)
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1906年10月、アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーがウィーン宮廷歌劇場と指揮者の契約を結ぶ。翌1907年1月、自作の交響曲第6番をウィーンで、交響曲第3番ベルリンで、交響曲第4番フランクフルトで、交響曲第1番リンツでそれぞれ上演したが、シーズン中に休暇をとって自作の演奏旅行をしたことで、ウィーンでのマーラー批判が一気に吹き出し、音楽界ほぼ全体が敵となった。このころには、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世とマーラーの仲介役だった宮廷大元帥モンテヌオーヴォ公爵との関係も冷えてしまっていた。

同年2月、アルノルト・シェーンベルク弦楽四重奏曲第1番室内交響曲第1番の初演を聴き、シェーンベルクの音楽を熱烈に支持する。3月18日、ロラーの舞台装置でグルックの『アウリスのイフィゲニア』の新演出を上演。これがマーラー最後の新演出となる。5月にウィーンで『サロメ』のオペラの初演を果たすが、6月5日、ベルリンニューヨークメトロポリタン歌劇場の支配人ハインリヒ・コンリートと会い、翌シーズンから同歌劇場の指揮者として就任することを承諾、21日に正式に契約を取り交わした。マーラーはこの時点で渡米の決意を固めたことになる。7月12日、夏の休暇先マイアーニックで長女マリア・アンナ死去。その直後にマーラー自身も心臓病の診断を受ける。
初演と出版
初演1910年9月12日の世界初演が行われた新祝祭音楽堂。現在はドイツ博物館交通館第1展示場となっている

1910年9月12日及び13日、ミュンヘンにて、マーラーの指揮による。マーラーは、この年4月にアメリカで交響曲第9番を完成した後、3度目のヨーロッパ帰還を果たしてこの初演に臨んだ。夏にはトーブラッハ(当時オーストリア領・現在のドロミテ・アルプス北ドッビアーコ)で交響曲第10番に着手している。

初演は「ミュンヘン博覧会1910」(Ausstellung Munchen 1910)と題された音楽祭の一環として行われた。エミール・グートマンの企画によるこの音楽祭は、ほぼ4か月にわたる大規模なもので、フランツ・シャルク指揮ウィーン楽友協会合唱団によるベートーヴェンミサ・ソレムニスやゲオルク・ゲーラー指揮ライプツィヒ・リーデル協会合唱団によるヘンデルオラトリオ『デボラ』の上演も行われている。マーラーの第8交響曲は、この音楽祭のメインイベントとして位置づけられていた。初演は鳴り物入りで予告・宣伝され、12日、13日ともに3000枚の切符が初演2週間前には売り切れた。演奏会には各国から文化人ら(後述)が集まった。1910年9月、初演に向けてのリハーサル風景

曲は850人程度で演奏可能であるが、初演時には出演者1030人を数え、文字どおり「千人の」交響曲となった。内訳は、指揮者マーラー、楽器奏者171名、独唱者8名、合唱団850名[5]。管弦楽はカイム管弦楽団(ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の前身)。合唱団には音楽祭に参加していたウィーン楽友協会合唱団250名、リーデル協会合唱団250名に、ミュンヘン中央歌唱学校の児童350名が加わった。

マーラーは少なくとも初演の1年前から準備に取りかかっている。練習は、編成が巨大で一堂に会することが困難なために、各地で分散して行われた。9月5日からの1週間を総練習に当て、様々な組み合わせで1日2回実施したという。マーラーはこの総練習の過程で、アルマに宛てた手紙で合唱団や合唱の練習を担当したシャルクの無能ぶりを厳しく批判したり、演奏会直前になって、興行主のグートマンにコンサートマスターの交代を要求したり、相変わらずの完全主義者ぶりを見せている。

会場は、博覧会会場である新祝祭音楽堂(現在のドイツ博物館交通館〔de:Verkehrszentrum (Deutsches Museum)〕第1展示場)で、コンクリートとガラスを主に使用した、当時としては先進的な建造物であった。音楽ホールとして設計されたものではなかったため、マーラーは興行主のグートマンに対して音響的な配慮や照明効果まで、細かく配慮を求めた。また、ウィーン宮廷歌劇場時代の同志であったロラーを呼び寄せ、演奏者の配置や照明など会場のアレンジを行わせている。その他、マーラーは初演にあたり、配布されるプログラムに出演者の名前や楽曲に使われる歌詞を除く楽曲解説が掲載されることを厳しく禁じた。また、会場前を走る路面電車についても、演奏中は徐行し鐘も鳴らさぬよう注文するほどだった[6]

初演は大成功をおさめ、演奏終了時、聴衆も演奏者も熱狂の渦に包まれたという。批評家パウル・シュテファンは「嵐のような熱狂は30分近く続いた。(中略)マーラーはおそらくこのとき、その生涯の絶頂、名声の絶頂に達したのだった」と述べている[1]

初演から8か月後の1911年5月18日、ウィーンでマーラーは没した。マーラーの死後、1911年の秋から翌春にかけて、第8交響曲はウィーンだけで13回上演されている。
初演列席者

この初演の聴衆には次の人物が含まれていた。
音楽家
アルノルト・シェーンベルクブルーノ・ワルター、ウィレム・メンゲルベルク、クラウス・プリングスハイムオットー・クレンペラーオスカー・フリートアントン・ヴェーベルンリヒャルト・シュトラウスマックス・レーガーフランツ・シュミットジークフリート・ワーグナーレイフ・ヴォーン・ウィリアムズセルゲイ・ラフマニノフレオポルド・ストコフスキー
文学者
アルトゥル・シュニッツラーフーゴ・フォン・ホーフマンスタールシュテファン・ツヴァイクトーマス・マンジョルジュ・クレマンソー
その他
アルベール1世ベルギー国王)、ルートヴィヒ・ルイトポルト(バイエルン王子)ヘンリー・フォード1916年3月2日、レオポルド・ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団による米国初演(演奏者1068人)

以上のうち、ストコフスキーはこの曲のアメリカ初演者(1916年)であり、ニューヨーク・フィルハーモニックと同曲最古(1950年)の録音を残している。また、マンは、初演後に讃辞とともに自著をマーラーに贈っている[7]
日本初演

1949年12月8日、東京日比谷公会堂にて、山田和男指揮・日本交響楽団による。当時の模様が「日本ニュース」第205号(1949年12月13日付)に収録されている。
出版

1911年、ウィーンウニヴェルザール出版社より出版。このとき、マーラーは同社に口添えし、アルマが結婚前に作曲していた歌曲を集めた楽譜を同じ装丁にして同時出版している。

1977年、エルヴィン・ラッツ監修、国際マーラー協会による「全集版」が同社から出版。


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