交響曲第6番_(チャイコフスキー)
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また初演のプログラムに副題は掲載されていないが、チャイコフスキーがユルゲンソンに初演の2日後に送った手紙で「Simphonie Pathetique」という副題をつけて出版することを指示している[1]

10月18日付のその手紙の内容とは「この交響曲のタイトルページに次のように書いてください。「ウラディミール・リヴォヴィチ・ダヴィドフに。悲愴交響曲(第6番)作品番号??? P.チャコフスキー作曲」間に合えばいいのですが! この交響曲で妙なできごとがありまして、問題というほどではないですがちょっと戸惑っています。私自身はこれまでのどの作品よりもこれを誇りに思っていますし、土曜日にモスクワに行きますので相談しましょう。お元気で。P.チャイコフスキー」(原文ロシア語)である[2]

モデストはこの曲のテーマとしていくつかの証言を残しているが、作曲者自身は「人生について」としか語っていない。リムスキー=コルサコフの回想によれば、初演の際、演奏会の休憩中にチャイコフスキーにその点を確かめてみた時には「今は言えないな」と答えたと言う。

チャイコフスキー自身は世評を気にしがちなタイプだったが、ことこの曲については最終楽章にゆっくりとした楽章を置くなどの独創性を自ら讃え、初演後は周りの人々に「この曲は、私の全ての作品の中で最高の出来栄えだ」と語るほどの自信作だった。

コンスタンティン・コンスタティノヴィチ・ロマノフ大公爵に宛てた手紙(1893年9月21日付)では「私はこの交響曲に魂のすべてを注ぎこみました……。(中略)形式としては独創性を示しており、フィナーレは普通よくあるアレグロではなく、アダージョのテンポで書いています。」[3][4]

チャイコフスキーの又甥のゲオルギイ・カルツォーフの妻で歌手であり、作品47が献呈されているアレクサンドラ・V・パナーエワ=カルツォーワの回想録「P・I・チャイコフスキイの思い出」には、チャイコフスキーが本作の初演後、従姉妹のアンナ・ペトローヴナ・メルクリングを家まで送る道中、アンナ・ペトローヴナに対して「新作の交響曲が何を表現しているか分かったか」と尋ね、彼女が「あなたは自分の人生を描いたのではないか」と答えたところ「図星だよ」と言ってチャイコフスキーは喜んだと記している。チャイコフスキーはアンナ・ペトローヴナに対して「第1楽章は幼年時代と音楽への漠然とした欲求、第2楽章は青春時代と上流社会の楽しい生活、第3楽章は生活との闘いと名声の獲得、最終楽章は〈De profundis(深淵より)〉さ。人はこれで全てを終える。でも僕にとってはこれはまだ先のことだ。僕は身のうちに多くのエネルギー、多くの創造力を感じている。(中略)僕にはもっと良いものを創造できるのがわかる」と話したと述懐している[5]
作曲の経緯・初演博士ガウンを身に纏ったチャイコフスキー《1893年6月、ケンブリッジ大学にて》交響曲第6番が作曲されたテーブル(チャイコフスキーの家博物館

チャイコフスキーは1891年に着想を得た変ホ長調の交響曲(自身で『人生』というタイトルをつけていた)を途中まで書いたところで、出来ばえに満足出来ず破棄し、ピアノ協奏曲第3番に改作した(未完に終わる)。しかしこの「人生」というテーマは彼の中で引き継がれていたようで、既に名士となり多忙な生活の中、新しく交響曲を書き始める。

残されている資料によれば1893年2月17日(第3楽章)に作曲に着手した。作業は急ピッチで進められ、それから半年後の8月25日にはオーケレストレーションまで完成し、同年10月16日(グレゴリオ暦では10月28日)に作曲者自身の指揮によりサンクトペテルブルクで初演された。あまりに独創的な終楽章もあってか、初演では当惑する聴衆もいたものの、先述するようにこの曲へのチャイコフスキーの自信が揺らぐことはなかった。

しかし初演のわずか9日後、チャイコフスキーはコレラ及び肺水腫が原因で急死し、この曲は彼の最後の大作となった。詳細は「チャイコフスキーの死」を参照
日本語における副題

副題の日本語訳に関しては諸説がある。曰く、チャイコフスキーがスコアの表紙に書き込んだ副題はロシア語で「情熱的」「熱情」などを意味する "патетическая"(パテティーチェスカヤ)である故に「悲愴」は間違いである、というものであるが、チャイコフスキーはユルゲンソンへの手紙などでは一貫してフランス語で「悲愴」あるいは「悲壮」を意味する"Pathetique" (パテティーク)という副題を用いていた[6] ため、一概に誤りとは言えない。ベートーヴェン『悲愴』ソナタも、作曲者自身によって付けられた副題はフランス語の "Pathetique" である。もっとも、その両者とも語源はギリシャ語の "Pathos"(パトス)であり、 "Passion"(受難曲) も同ギリシャ語に由来するものなので、ニュアンスとしては関連性がある。

いずれにしても、命名した時にはチャイコフスキー本人はあくまでもこの曲のイメージのみで発想したもので、死ぬ気や遺言などとして作曲したつもりもまったくなかった、とする研究もある[7]
編成

編成表木管金管
Fl.3(3番はピッコロ持ち替え)Hr.4Timp.Vn.1●
Ob.2Trp.2他バスドラム,シンバル,タムタム(任意)Vn.2●
Cl.2Trb.3Va.
Fg.2Tub.1Vc.
他他Cb.

ファゴットパートの一部をバスクラリネットに置き換える演奏上の慣例


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