交易
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古代ローマではメルクリウスが商業の神であり、その祭りは第5月の25日に交易者らによって祝われた[44][45]

交易の自由という概念は、古代ギリシャ諸国の統治者たちの意向や経済方針と対立する理念 だった。諸国間の自由な交易は、統治者の財物の安全保障を維持するための厳格な(課税を経由した)内部統制によって抑圧されていたが、とはいえ機能的な共同体生活の構造内では程々の節度が維持できていた[46][47]

ローマ帝国の衰退とそれに続く暗黒時代は西欧に不安定をもたらし、西側世界の交易網はほぼ崩壊した。しかし交易は、アフリカ、中東、インド、中国、東南アジアの王国間で盛んに継続された。一部の交易は西欧にもあった。例えば、中世ユダヤ商人のギルド組合 (Radhanite) はヨーロッパのキリスト教徒や近東のイスラム教徒と交易していた[48]
インド太平洋インド洋オーストロネシア人地域における先史・古代の海上交易網[49]

インド洋における最初の海上交易網は東南アジア島嶼部のオーストロネシア人によるもので[49]、彼らが最初の外洋航行船を建造した[50]台湾フィリピンの先住民によって始められたヒスイ海路 (Maritime Jade Road) は、東南アジアと東アジアの複数地域を結ぶ広範な交易網だった。その主要製品は、台湾先住民によって台湾から採掘されたヒスイで作られ、主にフィリピン先住民によって加工細工された。一部はベトナムでも加工され、マレーシアブルネイシンガポールタイインドネシアカンボジアの人々もこの大規模な交易網に参加した。この海路は、当時世界で最も広範な海洋基盤の単一地質学的材料の交易網の1つだった。それは少なくとも3000年間存在しており、ヒスイ生産の最盛期は紀元前2000年-西暦500年までと、ユーラシア本土のシルクロードや後年の海上シルクロードよりも古かった。ヒスイ海路は西暦900年代に衰退し始めた。同交易網の全期間が、この地域の多様なアニミズム社会の黄金時代であった[51][52][53][54]

遠洋航行する東南アジア人は、早くも紀元前1500年に南インドスリランカとの交易ルートを確立しており、物質文化(双胴船アウトリガーカヌー縫合船ビンロウジなど)と栽培起源種(ココナッツ白檀バナナサトウキビなど)の交換を先導すると共に、インドと中国の物質文化をつないだ。特にインドネシア人は、双胴船やアウトリガーカヌーを使って東アフリカと香辛料(主にシナモンカシア)の交易を行い、インド洋の偏西風の助けを借りて航海していた。この交易網はアフリカやアラビア半島にまで及んでおり、西暦500年までにオーストロネシア人がマダガスカルを植民地化した。それは有史になっても続き、後の海上シルクロードになった[49][55][56][57][58]
極東アジア

古代の極東アジアにおける交易は、中国冊封に基づいた周辺国による朝貢外交が特徴の一つである。日中間については、約二千年前の西暦 57年に奴国が使節を後漢に派遣し、光武帝より漢委奴国王印(金印)[59]を賜与されて以来、その歴史が始まった。239年には邪馬台国が使節をに派遣し、魏の皇帝より金印紫綬を賜ったことが『魏志倭人伝』に記されている[60]インドから東アジアに至る仏教伝播ルート

古代中国との交易によって大陸文化を取り入れた極東アジア諸国は(主な日本の導入例は、水稲耕作、仏教思想、漢字など)、その交易を維持しつつ発展を遂げることになる。日本の遣隋使(600-618)や遣唐使(630-894)も、中国から高度な文化と先進技術を取り入れることが主たる目的であった[61]。この時代の藤原京(694)、平城京(710)、平安京(794)に見られる都城構築は唐の条坊制を採り入れたものであり、奈良時代の律令制も唐朝の律令という法体系に倣って国家統治の仕組みを整備したものである[62]。また当時の交易でシルクロードを経て中国から渡来したと思われる、近東および地中海域(ギリシャ、ローマ等)文化圏の貴重な工芸品が正倉院宝物庫で見つかっている[63]


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