交易
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黒曜石は切削道具や工具を作る材料になっていたと思われるが、もっと楽に入手できる他の材料が使用可能だったので、フリントを豊富に活用する部族の高い地位だけで見つかった[23]。興味深いことに、黒曜石はフリントと比べて現在もの価値を保っている。

初期の交易者達は、地中海域の900km圏内で黒曜石を交易していた[24]

新石器時代ヨーロッパにおける地中海域の交易は、この素材が最も規模が大きかった[20][25]。交易網は紀元前12,000年頃に存在し[26] 、1990年の研究によればアナトリア半島レバントイランエジプトと交易するための主要拠点だった[27][28][29]ミロス島リーパリ島の黒曜石は、古代の地中海域で最も広範に交易される産物資源だった[30]

アフガニスタンの山岳地帯にある鉱山 (Sar-i Sang) は、ラピスラズリの交易で最も規模の大きな拠点だった[31][32]。この素材は紀元前1595年から始まるバビロニアカッシート王朝期に最も多く交易された[33][34]
その後の交易
地中海と近東詳細は「シルクロード」を参照

3000年もの間エブラは著名な交易の中心地で、交易網がアナトリアや北メソポタミアにも及んでいた[30][35][36][37]ヨーロッパとアジアを結ぶシルクロード交易ルートの地図

紀元前3000年より、宝飾品を作るための素材がエジプトと交易取引されていた。長距離の交易路が最初に現れたのは、メソポタミアのシュメール人インダス文明と交易した紀元前3千年紀頃である。フェニキア人は特筆すべき海上交易者で、地中海を横断し、青銅を製造するための資源を求めてブリテン島まで北上した。彼らはこの目的のために、ギリシャ人がエンポリウムと呼んだ交易植民地を設立した[38]。地中海沿岸では、地域交流の度合いと考古学的遺跡(鉄器時代以降)での局所的有病率との間に有意の関係性があることを調査団が発見した。これは、ある地域の交易可能性が人類の居住地の重要な決定要因だったことを示唆している[39]

ギリシャ文明の黎明期から5世紀のローマ帝国陥落まで、経済的に儲かる交易は、インドや中国を含む極東からヨーロッパへと貴重な香辛料をもたらした。ローマの商取引 (Roman commerce) が同帝国を繁栄存続させていた。後年のパクス・ロマーナでは、ローマがエジプトおよび近東を征服したことで地中海唯一の海洋大国になったため、海賊行為に怯えなくとも交易品の出荷を可能にする安全かつ安定した輸送網を構築した[40]

古代ギリシャではヘルメースが交易(商業)および度量衡の神だった[41][42][43]。古代ローマではメルクリウスが商業の神であり、その祭りは第5月の25日に交易者らによって祝われた[44][45]

交易の自由という概念は、古代ギリシャ諸国の統治者たちの意向や経済方針と対立する理念 だった。諸国間の自由な交易は、統治者の財物の安全保障を維持するための厳格な(課税を経由した)内部統制によって抑圧されていたが、とはいえ機能的な共同体生活の構造内では程々の節度が維持できていた[46][47]

ローマ帝国の衰退とそれに続く暗黒時代は西欧に不安定をもたらし、西側世界の交易網はほぼ崩壊した。しかし交易は、アフリカ、中東、インド、中国、東南アジアの王国間で盛んに継続された。一部の交易は西欧にもあった。例えば、中世ユダヤ商人のギルド組合 (Radhanite) はヨーロッパのキリスト教徒や近東のイスラム教徒と交易していた[48]


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