亡命
1949年、プリーディー・パノムヨン、クーデターに失敗し、フランスへ亡命。
1952年、チャールズ・チャップリン、アメリカから追放。スイスへ移住。
1953年、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)空軍のパイロット、盧今錫中尉が乗機MiG-15で大韓民国(韓国)の金浦空港に強行着陸。アメリカに対し亡命を申請。
1957年、プレーク・ピブーンソンクラーム、クーデターによりカンボジア経由で出国。日本へ移住。
1959年、ダライ・ラマ14世、チベットからインドに亡命。チベット亡命政府を樹立。
1960年、李承晩、韓国からアメリカに亡命。
1966年、在日朝鮮人の帰還事業で移住したボクサーの金田森男(金貴河)が滞在先のカンボジアの日本大使館に出向くも、亡命に失敗する。
1970年、共産主義者同盟赤軍派メンバーが日本航空機(よど号)をハイジャックし、北朝鮮へ亡命(よど号ハイジャック事件)。
1974年、アレクサンドル・ソルジェニーツィンがソ連から国外追放。スイス経由で1976年にアメリカに移住。
1974年、ミハイル・バリシニコフ、ソ連からアメリカに亡命。
1975年、マルチナ・ナブラチロワ、チェコスロバキアからアメリカに亡命。
1976年、ソ連空軍のパイロット、ヴィクトル・イワノヴィチ・ベレンコ中尉が乗機MiG-25で函館空港に強行着陸。アメリカ合衆国に対し亡命を申請(ベレンコ中尉亡命事件)。
1979年、イディ・アミン、ウガンダからリビア経由でサウジアラビアに亡命。
1983年、アントニオ・ネグリ、イタリアからフランスに亡命。
1984年、アンドレイ・タルコフスキー、ソビエト連邦当局からの帰国要請を拒否しイタリアにて事実上の亡命を宣言。
1986年、フェルディナンド・マルコス及びイメルダ・マルコス、エドゥサ革命によりハワイへ亡命。
1989年、ナディア・コマネチ、ルーマニアからハンガリー経由でアメリカに亡命。
1989年、ハンガリーで汎ヨーロッパ・ピクニックが開催され、1000人以上の東ドイツ国民が集団亡命。
1998年、李洪志、中華人民共和国(中国)からアメリカ合衆国に亡命。
2000年、テルアビブ空港乱射事件に対してイスラエルで終身刑判決を受け、服役中に「捕虜交換」の名目で釈放され、レバノンに滞在していた岡本公三に、再びテルアビブ事件についての刑事責任を問う目的で、日本国政府が引き渡し要求をした事に対し、レバノン政府は岡本の政治亡命を認め保護。
2000年、日本滞在中のペルー大統領、アルベルト・フジモリが大統領辞任を表明後も日本滞在を続け、事実上亡命。大統領選出馬の意を表明、2005年帰国途中のチリで逮捕。
2002年、中国・瀋陽において北朝鮮を脱出した住民が亡命を目的に、日本総領事館に駆け込むが、総領事館を警備していた中国公安職員が敷地内に立ち入り住民を拘束。日本国政府が抗議。その後、住民らはマニラを経て韓国へ亡命(瀋陽総領事館北朝鮮人亡命者駆け込み事件)。
2004年、元チェス世界チャンピオンのボビー・フィッシャーが、成田空港で有効パスポート不所持により出国差止めのうえ身柄収容され、フィリピンへの亡命を申請。アイスランドが市民権を承認し出国。
2006年、タクシン・チナワット、外遊先からタイ王国に帰国せず、以来、事実上の亡命状態となる。
2007年、ネパールの親王族派の有力一族であるケー・シー・ディパックが、ネパール共産党毛沢東派からの迫害を受け、日本へと亡命[3]。ディパックは、他にも難民認定の必要な亡命者が居るとしている[3]。
2009年、キューバの野球選手アロルディス・チャップマンが、野球キューバ代表の遠征地オランダにて亡命。
2013年、アメリカ合衆国連邦政府の元CIA職員エドワード・スノーデンが、ロシア連邦に亡命。
2014年、郭文貴、中国からアメリカ合衆国に亡命。
2015年、中国共産党中央統一戦線工作部元部長の令計画の弟である令完成が、機密資料を持ってアメリカ合衆国に亡命。
2021年、サッカー・ワールドカップの予選に出場するために来日していたミャンマーの代表選手ピエ・リヤン・アウンが国軍のクーデターにより、母国が政情不安になっていることを理由として、関西国際空港にて帰国することを拒否する意向を示し、亡命した[4]。
2021年、東京オリンピック女子陸上競技に出場していたベラルーシ代表のクリスツィナ・ツィマノウスカヤが羽田空港で帰国することを拒否する意向を示し、ポーランドに亡命した[5][6]。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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