亜烈進卿
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1412年(永楽10年/太宗12年)4月、陳彦祥(『朝鮮王朝実録』の記事では「亜列」という称号を付している)の孫の陳実崇が朝鮮を訪れた。実崇は陳彦祥が博多で記した文書を携えており、陳彦祥が前回の朝鮮からの帰途遭難して日本に流されたこと、日本国王の支援で本国に帰還したことなどを記し、陳彦祥が7月以来博多にあり、前回の謝恩のために孫を朝鮮に派遣すること、来年には自身も朝鮮を訪れるであろうことを記している[15][注釈 8]

なお、陳彦祥はこれ以前、1393年に暹羅解国(シャム・アユタヤ王朝)の使節(副使)として朝鮮に到来していた[8]。この時陳彦祥は朝鮮回礼使「厚とともに日本に向かったが倭寇に襲われて果たせなかったといい、シャムが日本との通交を期待していたという見解がある[8]
施済孫と日本・琉球

施進卿は1416年(永楽14年/応永23年)頃に死去したと見られ[2]、その後を施済孫が継いだ[2]。1419年(応永26年)、施済孫が派遣したと思われる使節が南九州(阿多氏領内とみられる)に到来している[2]九州探題渋川満頼(道鎮)・義俊父子は南蛮船の博多回航を促し、翌1420年(応永27年)に南蛮船は博多に入港した[2]。室町幕府は兵庫に来航するよう指示したが、これが果たされたかは不明である[2]。わかっていることは、かれらは帰国前に船を失ってしまったことである[2]。琉球の外交史料『歴代宝案』によれば、1421年(応永28年)に渋川道鎮はパレンバンの「施主烈智孫」(「主烈」はサンスクリットのSri、智孫は済孫と音通[2])が派遣した使者を琉球に送り、琉球からパレンバンに帰国させるよう依頼した[2]。しかし、当時は琉球とパレンバンの間に国交がなかったため、琉球から暹羅に派遣する船に載せて、暹羅から転送するよう措置が取られた[2]
象とその後
日本最初の象

亜烈進卿の使節は、日本に象をもたらした。象についての知識は仏典などを通じてそれまでも知られていたが、生きた象が到来したのはこれが初めてとされる[4]

『東寺王代記』応永12年7月22日条には「黒鳥自唐引進、高六尺余」と象らしき動物の入京が記載されている[4]。ただし、足利義持が象と面会したという記録や、象の評判についての他の記録は残っていない[4]
朝鮮最初の象

1411年(応永18年/太宗11年)、足利義持は朝鮮の太宗に象を贈った。『朝鮮王朝実録』によれば、朝鮮でも生きた象は初めて見るものであった[17]。日本国王源義持、遣使献象、象我国未曾有也、命司僕養之、日費豆四、五斗 ? 『朝鮮王朝実録』太宗十一年二月癸丑(2月22日)条[18]

よく馴れた象であったとされ、司僕寺(馬などの動物の飼育に携わる官署[19])で世話を任されることになった。しかし、1412年(太宗12年)12月、前工曹典書の李?という人物が象を見た際、形相が醜悪であるとして唾を吐きかけたところ、象が李?を踏み殺すという事件を起こす[17][注釈 9]

その後もう一人に危害を与えたらしく、1413年(太宗13年)11月、兵曹判書柳廷顕(朝鮮語版)は「日本から贈られてきた馴象であるが、王はすでに愛玩しておらず、国にとっては無益であり、二人を害した。人間の法で論じるならば殺人は死罪相当である。一年間に食した豆は数百にも上る」とし、周公旦が象などの猛獣を遠方へ駆逐した故事[注釈 10]を引いて、全羅道の海島に配流することを王に建言した[注釈 11]。象はこうして全羅道の島(順天府?島[注釈 12])に流刑に処せられた[22]

当時の人々は象は水草を食べて生きられると考えていたようであるが、半年が過ぎた翌1414年(太宗14年)5月、全羅道観察使から「象が水草を食べず、日ごとにやせ衰えており、見る者の涙を誘っている」という報告が届けられた。太宗は象を憐れみ、象を本土に戻してもとのように飼育するよう命じた[15][注釈 13]

その後、象は全羅道内の4地区が輪番で飼育していたようであるが、それでも飼料の負担が大きかったために、1420年(世宗2年)12月に全羅道・忠清道慶尚道との輪番になった[注釈 14]。しかし、1421年(世宗2年)3月に忠清道公州で飼育に当たっていた奴婢を蹴り殺す。忠清道観察使は象の飼育が有害無益であるとして海島の牧場に放つことを建議し、「水草の良いところを選んで放し、病死しないようにせよ」と王命が下った[注釈 15]
小浜市と象

小浜市は「初めてゾウが来たまち小浜」としてPR活動を行っている[1]。2001年(平成13年)4月1日制定の小浜市民憲章では「日本で初めて象が来たまち」と謳っており[1][26]、小浜市役所1階の市民ホールには南蛮屏風ふうに作画された「初めてゾウが来た港の図」が展示されている[1]

中世の小浜にはいくつかの湊があり、象の上陸地点についてははっきりしない[1]。古い時期の湊のひとつとして、内外海半島の付け根に当たる古津(現在の小浜市阿納尻)があるが[1]、その隣の甲ヶ崎地区に「象つなぎ岩」と呼ばれる岩がある[1][27]。この「象つなぎ岩」は亜烈進卿の象と結びつけて紹介されており、甲ヶ崎あるいは古津に上陸した象をつないだとされている。小浜市では市内各所に「ゆかりの偉人」を紹介する看板を設置しているが、象つなぎ岩の傍らに「亜烈進卿」(施進卿)を紹介する看板が建てられている。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 小葉田淳「旧港及び其の日琉両国との交渉について」『中世南島通交貿易史の研究』第三編第二章(刀江書院、1968年)[8]
^ 國原が引く和田久徳「十五世紀初頭のスマトラにおける華僑社会」『お茶の水女子大学人文科学紀要』第20巻、1967年
^ 高良倉吉『続おきなわ歴史物語』が引く和田久徳「東南アジアにおける華僑社会の成立」『世界の歴史 13』(筑摩書房)
^ 國原[8]や高橋[5]の整理によれば、新村出(「足利時代に於ける日本と南国との関係」『続南蛮広記』岩波書店、1925年)、和田久徳(「十五世紀初頭のスマトラにおける華僑社会」『お茶の水女子大学人文科学紀要』第20巻、1967年)、小葉田淳(「旧港及び其日琉両国との交渉に就いて」『中世南島通交貿易史の研究』刀江書院、1968年、など)がパレンバン(旧港)主体の使節との立場をとる。
^ 國原[8]や高橋[5]の整理によれば、秋山謙蔵(「爪哇船の渡来と象の伝来」『日支交渉史話』内外書籍、1935年)、三浦周行(「応永外寇の真相」『日本史の研究 第二輯下』岩波書店、1981年)、高柳光寿(「応永年間に於ける南蛮船来航の文書について」『高柳光寿史学論文集 上』吉川弘文館、1970年)が爪哇国が派遣主体との立場をとる。
^ 「南蕃(瓜蛙國)〔爪蛙國〕 使陳彦祥, 至全羅道 群山島, 爲倭所掠, 船中所載火?、孔雀、鸚鵡、鸚哥、沈香、龍腦、胡椒、蘇木、(香)〔木香〕 等諸般藥材、蕃布, 盡被?奪。


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