亜烈進卿
[Wikipedia|▼Menu]
和田久徳は、「亜烈」はマジャパヒト王国(ジャワ)で「栄誉」を意味するアーリャ (arya) を漢字に音訳した[5] ジャワ系の称号であるとしている[注釈 2]。爪哇国(ジャワ)は外交使節として華僑を活用しているが、明に四回にわたって入貢した「亜烈郭信」など[注釈 3]、「亜烈」の称号を持つ者がいる[10]
使節の派遣主体をめぐって

小浜に来航した使節については、施進卿らパレンバンの華僑勢力が派遣主体であるという見解がある[注釈 4]。一方、当時パレンバンは爪哇国(マジャパヒト王国)に半属していたとして、爪哇国が主体として派遣した使節であるという見解もある[注釈 5]。1408年に小浜に到来した使節を爪哇国派遣のものとする秋山謙蔵は、使節を陳彦祥(後述)と見なしている[8]
小浜は目的地か否か

日本海側の小浜に2度の「南蕃船」着岸があったことについては、これを漂着などの偶発的事情によるものとする説がある[11]。高橋公明の整理によれば、パレンバン説では最初の着岸が偶発的なものとする解釈する傾向があり、爪哇説では二度目の着岸が偶発的とみる傾向があるという[11]

高橋は、室町幕府将軍が対外関係以外では用いない「日本国王」と記録され、また「帝王」という称号が送主の自称と見られることから、この使節は漂着などにより偶然に日本の小浜に到着したのではなく、日本への外交文書を携えて日本を目指してやって来た使節であろうとする[5]。また、外国使節への対応が可能な問丸本阿弥がいたことは、小浜を含めた日本海側地域が対外的に開かれていた歴史的な積み重ねがあり、この時期にもその機能が残っていたことを示すものとしている[11]
異説

『日本イスラーム史』(日本イスラーム友好連盟、1988年)を著したイスラーム聖職者小村不二男は、「亜烈進卿」の名を「アラジン卿」と読むとし、マレーシア系の首長としている[12]
当時の東南アジアと日本・朝鮮の通交について

時系列
1393年陳彦祥、暹羅解国使節として朝鮮に到来
陳彦祥は朝鮮から日本に向かうも果たせず
1401年(足利義満、日本国王に冊封。勘合貿易開始)
1406年陳彦祥、爪哇国使節として朝鮮に到来
1407年施進卿、旧港宣慰使となる
1408年亜烈進卿派遣の南蕃船、小浜に到来
1409年亜烈進卿の使節、新造船で小浜を出港し「渡唐」
1411年足利義持、象を朝鮮に贈る
(足利義持、勘合貿易を停止)
1412年小浜に第二の南蕃船到来
陳彦祥の孫、朝鮮に到来
1416年この頃、施進卿死去
1419年施済孫派遣とみられる南蛮船、南九州に到来
(応永の外寇)
1420年南蛮船、博多に回航。その後破船
1421年施済孫(智孫)の使者、日本から琉球に送られる
使者は暹羅派遣船に便乗し帰国

15世紀初頭の当時、東南アジアの諸勢力は、日本や琉球・朝鮮にしばしば使節を派遣した[2]。こうした使節には通訳・外交官として華僑が関わった。また、東シナ海一帯は倭寇の活動領域でもあった。タイ・ジャワ・朝鮮・日本の間で活動し、小浜に訪れた使節であるとする説もある陳彦祥と、施進卿の後継者で日本・琉球・タイ・パレンバンとの関係を窺わせる施済孫について、関連事項として本項で触れる。
陳彦祥と朝鮮・日本

1406年(永楽4年/太宗6年)6月、爪哇国の使節の陳彦祥が朝鮮に到着したが、陳彦祥は全羅道沖で倭寇に襲撃され、孔雀や鸚鵡、胡椒や沈香や蘇木などの献上品を奪われたと述べた[4][注釈 6]。同年9月、対馬の宗貞茂が朝鮮王朝に蘇木・胡椒・孔雀を献上したが、その際にこれらは南蛮船から掠取したものである旨を申告した[4][注釈 7]。朝鮮では検討の結果、胡椒や孔雀などを献上品として受け入れるとともに、陳彦祥には新しい船を与えて帰国させることとした[4]。陳彦祥は翌年の来朝を約束した[4]。1412年(永楽10年/太宗12年)4月、陳彦祥(『朝鮮王朝実録』の記事では「亜列」という称号を付している)の孫の陳実崇が朝鮮を訪れた。実崇は陳彦祥が博多で記した文書を携えており、陳彦祥が前回の朝鮮からの帰途遭難して日本に流されたこと、日本国王の支援で本国に帰還したことなどを記し、陳彦祥が7月以来博多にあり、前回の謝恩のために孫を朝鮮に派遣すること、来年には自身も朝鮮を訪れるであろうことを記している[15][注釈 8]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:45 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef