小浜に来航した使節については、施進卿らパレンバンの華僑勢力が派遣主体であるという見解がある[注釈 4]。一方、当時パレンバンは爪哇国(マジャパヒト王国)に半属していたとして、爪哇国が主体として派遣した使節であるという見解もある[注釈 5]。1408年に小浜に到来した使節を爪哇国派遣のものとする秋山謙蔵は、使節を陳彦祥(後述)と見なしている[8]。 日本海側の小浜に2度の「南蕃船」着岸があったことについては、これを漂着などの偶発的事情によるものとする説がある[11]。高橋公明
小浜は目的地か否か
高橋は、室町幕府将軍が対外関係以外では用いない「日本国王」と記録され、また「帝王」という称号が送主の自称と見られることから、この使節は漂着などにより偶然に日本の小浜に到着したのではなく、日本への外交文書を携えて日本を目指してやって来た使節であろうとする[5]。また、外国使節への対応が可能な問丸本阿弥がいたことは、小浜を含めた日本海側地域が対外的に開かれていた歴史的な積み重ねがあり、この時期にもその機能が残っていたことを示すものとしている[11]。 『日本イスラーム史』(日本イスラーム友好連盟、1988年)を著したイスラーム聖職者小村不二男 時系列 15世紀初頭の当時、東南アジアの諸勢力は、日本や琉球・朝鮮にしばしば使節を派遣した[2]。こうした使節には通訳・外交官として華僑が関わった。また、東シナ海一帯は倭寇の活動領域でもあった。タイ・ジャワ・朝鮮・日本の間で活動し、小浜に訪れた使節であるとする説もある陳彦祥と、施進卿の後継者で日本・琉球・タイ・パレンバンとの関係を窺わせる施済孫について、関連事項として本項で触れる。 1406年(永楽4年/太宗6年)6月、爪哇国の使節の陳彦祥
異説
当時の東南アジアと日本・朝鮮の通交について
1393年陳彦祥、暹羅解国使節として朝鮮に到来
陳彦祥は朝鮮から日本に向かうも果たせず
1401年(足利義満、日本国王に冊封。勘合貿易開始)
1406年陳彦祥、爪哇国使節として朝鮮に到来
1407年施進卿、旧港宣慰使となる
1408年亜烈進卿派遣の南蕃船、小浜に到来
1409年亜烈進卿の使節、新造船で小浜を出港し「渡唐」
1411年足利義持、象を朝鮮に贈る
(足利義持、勘合貿易を停止)
1412年小浜に第二の南蕃船到来
陳彦祥の孫、朝鮮に到来
1416年この頃、施進卿死去
1419年施済孫派遣とみられる南蛮船、南九州に到来
(応永の外寇)
1420年南蛮船、博多に回航。その後破船
1421年施済孫(智孫)の使者、日本から琉球に送られる
使者は暹羅派遣船に便乗し帰国
陳彦祥と朝鮮・日本