井筒俊彦
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在学中、旧約聖書に関心を持ち、神田の夜学で小辻節三からヘブライ語を習う。さらに、夜学の先輩関根正雄と意気投合し、アラビア語の教科書をドイツから取り寄せて、関根と共にアラビア語を学ぶ。同時にロシア語古典ギリシア語ラテン語も学習。1度に10の言語を学んだ。
大学卒業後と2人のタタール人イスラーム法学者からのアラビア語伝授

1937年に卒業後、直ちに慶應義塾大学文学部の助手となる。

彼は「新しい外国語を一つ習得する時は、その国の大使館のスタッフを自宅に下宿させた」という有名な伝説は「生きた人間とはやらない」と自ら否定している[3]が、アラビア語に関してはイスラーム専門家2名に長期間師事している。

アラビア語については自著『アラビア語入門』で完全に理解し自由自在に活用できることの困難さを述べており、

アラビア語がこれほど重要であることは誰にも分かっているのに、実際はこの言葉を完全に学習し、山積する貴重な文献を自由自在に活用できるような学者は、日本はおろかヨーロッパの東洋学者にも数える程しか居ないのだ。何故だろう?簡単に言って了えば、アラビア語があまりにもむずかしいからである。

英仏独のような近代ヨーロッパ語の一つを学習するつもりでこの言葉に向ったなら、挫折することは初めからわかり切っている。

アラビア語は西アジアに現に行われている文化語のうちで恐らく最も学習困難な言語である。

と記している。

独学期間を経て井筒は大学卒業後(1937年以降)に在日タタール人イスラーム学者(ウラマー)アブデュルレシト・イブラヒムに再三面会を求めアラビア語を教えてほしいと依頼。アラビア語の生音声を聞き大喜びした井筒青年に対し、同師はイスラーム諸学を同時に学ぶという条件を出し、2年余り毎日通い詰めて教えを受けることを許した。

その後アブドゥルレシト・イブラヒム師から他のタタール人大学者ムーサ・ビギエフ(タタール語版、英語版)を紹介され、彼が日本で暮らしていた2年間の間多くの日々を共に過ごしたという[4]

この頃井筒はアラビア語で生活し、朝早くから明け方近くに就寝するまでアラビア語を読み書きし・話し、さらには教えるというアラビア語漬けの生活を送っており、『アラビア語入門』原稿はそうした中昭和16年に書き上げた[5]ものだったという。
イスラーム研究の本格化

戦時中は軍部に駆り出されて中近東の要人を相手としたアラビア語の通訳をした。

保守思想家でイスラム研究者でもあった大川周明の依頼を受け、満鉄系の東亜経済調査局回教圏研究所で膨大なアラビア語文献を読破し、イスラーム研究を本格化させた。前嶋信次はその時の同僚で、のち共に慶應義塾大教授(東洋史)。

1958年に『コーラン』の日本語訳を完成させた。井筒訳の『コーラン』は、厳密な言語学的研究を基礎とした秀逸な訳として、現在に至るまで高い評価を受けている。『コーラン』についての意味論的研究『意味の構造』(原著英語)の評価も高く、コーランやイスラーム思想研究では、言語を問わずたびたび引用されている。

ちなみに、語学的な才能に富んでいた井筒は、アラビア語を習い始めて1か月で『コーラン』を読破したという。語学能力は天才的と称され30数言語を使いこなしたとも言われる[6]司馬遼太郎は、対談冒頭で井筒を評し「二十人ぐらいの天才が一人になっている」と語っている[7]
思想研究

1959年より、ロシア・フォルマリストローマン・ヤーコブソンの推薦を得てロックフェラー財団フェローとして、レバノンエジプトシリアドイツパリなど中近東・欧米での研究生活に入る。

思想研究の主要な業績はイスラム思想、特にペルシア思想とイスラム神秘主義に関する数多くの著作を出版したことだが、自身は仏教徒で、晩年には研究を仏教哲学唯識華厳などの大乗仏典)、老荘思想朱子学、西洋中世哲学ユダヤ思想などの分野にまで広げた。古代ギリシア哲学ロシア文学に関する専門書も若くして出版している。


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