井伏鱒二
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目に含まれる文字「鱒」は、オペレーティングシステムブラウザなどの環境により表示が異なります。

井伏 鱒二
(いぶせ ますじ)
1952年の井伏 鱒二
誕生井伏 滿壽二(いぶし ますじ)
1898年2月15日
日本広島県安那郡加茂村
(現福山市
死没 (1993-07-10) 1993年7月10日(95歳没)
日本東京都杉並区
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴早稲田大学仏文科中退
活動期間1923年 - 1993年
ジャンル小説随筆
文学活動新興芸術派
代表作『山椒魚』(1929年)
『屋根の上のサワン』(1929年)
ジョン万次郎漂流記』(1937年)
『さざなみ軍記』(1938年)
『多甚古村』(1939年)
本日休診』(1950年)
駅前旅館』(1957年)
黒い雨』(1966年)
『荻窪風土記』(1982年)
主な受賞歴直木三十五賞(1938年)
読売文学賞(1950年・1972年)
日本芸術院賞(1956年)
文化勲章(1966年)
野間文芸賞(1966年)
デビュー作『幽閉』(1923年)
親族郁太(父)
ミヤ(母)
民左衛門(祖父)
文夫(兄)
泉(姉)
圭三(弟)
節代(妻)
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

井伏 鱒二(いぶせ ますじ、1898年明治31年〉2月15日 - 1993年平成5年〉7月10日)は、日本小説家。本名:井伏 滿壽二(いぶし ますじ)。広島県安那郡加茂村(現福山市)出身[1]筆名釣り好きだったことによる。日本芸術院会員、文化功労者文化勲章受章者。福山市名誉市民、広島県名誉県民名誉都民
来歴

1898年、広島県安那郡加茂村粟根に父・井伏郁太、母・ミヤの次男として生まれた。井伏家は室町時代の1442年嘉吉2年)まで遡れる旧家で、「中ノ士居(土地の言葉でナカンデエ)」の屋号をもつ代々の地主である[2]。5歳のときに父を亡くし、特に祖父にかわいがられて育つ。

1905年、加茂小学校入学。この年の夏に祖父と訪れた鞆ノ津(鞆の浦)で初めて海を見て、一尺くらいある黒鯛を釣り上げた[3]

1912年、旧制広島県立福山中学校(現広島県立福山誠之館高等学校)に進学した。同校の庭には池があり、2匹の山椒魚が飼われていて[4]、これがのちに処女作として発表され、世に知られることとなる「山椒魚」に結びついた。作文は得意だったが成績はあまり振るわず、中学3年のころから画家を志し、卒業すると3か月間奈良京都を写生旅行。そのとき泊まった宿の主人が偶然橋本関雪の知り合いと聞き、スケッチを託して橋本関雪に入門を申し込んだが断られ、やむなく帰郷する。

後に、同人誌に投稿などをしていた文学好きの兄からたびたび勧められていたこともあり、井伏は文学に転向することを決意、1917年9月、早稲田大学予科に入学、1919年4月、文学部仏文学科に進学する[5]。そこで同じ学科の青木南八と親交を深める一方、文壇で名を成していた岩野泡鳴谷崎精二らのもとを積極的に訪ねるようになる。しかし1921年、三回生の時、井伏は担当の片上伸教授と「衝突[注 1]」し、やむなく休学し帰郷、母と兄の配慮により中学時代の恩師を人伝に仲介を受け、御調郡(旧・因島市、現・尾道市因島三庄町千守の土井医院[注 2]2階へ逗留することとなった[6][7][8][9]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:155 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef