井上靖
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九州帝国大学法文学部(現:九州大学文学部)英文科へ入学する(福岡市中央区唐人町の素人下宿に棲む)。

1932年(昭和7年) - 九州帝大中退。京都帝国大学文学部哲学科へ入学。

1935年(昭和10年) - 京都帝大教授・足立文太郎の娘ふみと結婚。

1936年(昭和11年) - 京都帝大卒業[2]。『サンデー毎日』の懸賞小説で入選(千葉亀雄賞)し、それが縁で毎日新聞大阪本社へ入社。学芸部に配属される。日中戦争のため召集を受け出征するが、翌年には病気のため除隊され、学芸部へ復帰する。なお部下に山崎豊子がいた。

戦後は学芸部副部長を務め、囲碁の本因坊戦や将棋の名人戦の運営にもかかわる。

1950年(昭和25年) - 『闘牛』で第22回芥川賞を受賞。

1951年(昭和26年) - 毎日新聞社を退社。以後創作の執筆と取材講演のための旅行が続く。

1955年(昭和30年) - 講演のため旭川を訪れる。短編「姨捨」発表。

1960年(昭和35年) - ローマ五輪の取材をする。

1964年(昭和39年) - 日本芸術院会員となる。

1976年(昭和51年) - 文化勲章受章。

1982年(昭和57年) - 以降、世界平和アピール七人委員会の委員を務める。

1988年(昭和63年) - 正月、宮中歌会始召人となる。ならシルクロード博覧会総合プロデューサーを務める。

1991年平成3年)1月29日 - 急性肺炎のため東京都中央区国立がんセンターで死去[1][3][4]。享年83。戒名は峯雲院文華法徳日靖居士。墓所は静岡県伊豆市、葬儀委員長は司馬遼太郎
伊豆市湯ケ島熊野山墓地にある井上靖のお墓

2007年(平成19年) - 生誕100周年を記念して『風林火山』が大河ドラマとして放送された。

作風

小説は知識人の孤独な魂を叙情豊かに描いた現代を舞台とするもの(『猟銃』、『闘牛』、『氷壁』他)、自伝的色彩の強いもの(後述。『あすなろ物語』、『しろばんば』他)に加え、歴史に取材したものに大別される。歴史小説は、日本で特に戦国時代(『風林火山』、『真田軍記』、『淀どの日記』他)、中国ではとりわけ西域を題材にした(『敦煌』、『楼蘭』、『天平の甍』他)ものを多く描いた。巧みな構成と詩情豊かな作風は今日でも広く愛され、映画・ドラマ・舞台化の動きも絶えない。

しろばんば』、『夏草冬濤』、『北の海』は、自身がモデルの主人公・伊上洪作が幼少期から青年に至るまで自伝的な作品である(井上靖自伝的小説三部作[5])。『しろばんば』[注 1]静岡県伊豆湯ヶ島(現:伊豆市湯ヶ島)で過ごした幼少時代の、『夏草冬涛』は旧制沼津中学校の生徒だった頃の、『北の海』は沼津中学卒業後の沼津での浪人生活の1年近くの日々を描いたもので、その日常、あるいは旧制第四高等学校の練習に誘われ、寝技主体の柔道、いわゆる高専柔道に明け暮れる洪作が生き生きと描かれている。井上靖の周囲に実在した人物がモデルとして多く登場し、特に『しろばんば』中に登場する、曽祖父の妾で洪作とは血の繋がらない「おぬいばあさん」(実在の名は「おかの」)との生活は、井上靖の人格形成を語る上で欠かせないものである。

その他、老いの境地に入った実母・八重について書いた作者晩年の短編三部作として『花の下』、『月光』、『雪の面』がある(講談社文庫より『わが母の記 -花の下・月の光・雪の面-』の題名で発行され、モントリオール世界映画祭審査員特別グランプリ受賞の映画『わが母の記』にもなった)。
エピソード

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北海道生まれだが出身地は静岡県である。随筆『郷里伊豆』に「私は北海道旭川で生まれた。しかし年鑑や名簿などでは私の出生地は殆ど静岡県になっている。自分で書く時は出生地は旭川、出身地は静岡県と区別して書くが…」と記している。

『私の自己形成史』の中の<自然との奔放な生活>には「この少年時代を過ごした原籍地の伊豆が私の本当の意味での郷里であり、ここで私という人間の根底になるものはすべて作られたと考えていいようである」と記している。

大阪毎日学芸部時代は主に美術方面の取材を行っていた。京都の日本画家・上村松篁と懇意だったことから、上村が関わった「創造芸術」(創画会の前身)結成をスクープするなどの実績を残した[6]。小説家専業となった後も、美術批評をまとめた作品を数冊発表している(著書欄参照)。

天寿を全うし、最晩年のがんを除けば病気らしい病気もしなかったといわれるが、文壇の酒豪番付の横綱常連で、60・70代になっても酒量が増え続けるほどだったという。ノーベル賞を逃した夜は、無礼講で「ノーメル賞だ」と知人らにふるまった。

晩年には親鸞を、また、大阪毎日新聞の記者であった自分をモデルにした小説に書こうと考えていたが、実現することなく亡くなった。なおアメリカの日系移民をテーマにした大作『わだつみ』の完結にも意欲を見せていたが(1976年段階で半分まで書いたとしている)未完作である[7]

日本画家平山郁夫とは日中文化交流で終生親しく、平山が関連役職を継いでいる。

神社仏閣、日本史にも造詣が深く、複数の出版社で監修・編集委員を引き受けている。

著作の一つ『蒼き狼』の執筆の動機として、著者が旧制中学生の頃に「成吉思汗源義経也、非ず」という論争が『中央史壇』で行われており、著者が第四高等学校へ進学した時にその友人がこの論争について言及していた事をきっかけとして、帝国大学へ進学してから『中央史壇』におけるくだんの記事を読み関心を持った(新潮文庫版『蒼き狼』の著者あとがきより)。

壺井栄中野重治源氏鶏太らとともに長野県軽井沢町の上ノ原地区に別荘を構え、「上ノ原文士村」と呼ばれた[8]

家族

妻の
井上ふみ(1910年9月28日生まれ)は、解剖学者・足立文太郎の長女。靖との間に4人の子供(2男2女)がいる。潮出版社で回想記を数冊刊行。

長女の浦城幾世(いくよ)(1936年10月11日生まれ)は、青山学院大学文学部を卒業。一般財団井上靖記念文化財団専務理事。旭川市井上靖記念館相談役[9]

長男の井上修一(1940年12月15日生まれ)は、ドイツ文学者東京大学文学部卒業、東京大学大学院修士課程修了、一橋大学教授から筑波大学教授を経てプール学院大学学長に就任。


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