井上準之助
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1869年(明治2年) - 大分県大鶴村(現:日田市大肥大鶴町)に、造り酒屋「井上酒造」を営む井上清・ひな夫妻の五男として生まれた。生家[10]は、1804年創業の酒蔵であったが、7歳の時に叔父、井上簡一の養子として生家を離れている。しかし、養父の病没で11歳で家督相続したものの、すぐに実家に復籍している[11]

教英中学中退[12]、上京後、成立学舎などに通う。

1888年(明治21年) - 仙台第二高等中学校予科1年次入学。高山樗牛と同級で、卒業時にはそれぞれ法科と文科の首席を分け合う[13]

1893年(明治26年) - 帝国大学英法科入学

1896年(明治29年) - 帝大卒業後、日本銀行入行

1905年(明治38年) - 大阪支店長

1908年(明治41年) - ニューヨーク駐在

1911年(明治44年) - 横浜正金銀行副頭取に就任

1913年(大正2年) - 横浜正金銀行頭取に就任

1919年(大正8年) - 日本銀行総裁に就任

1923年(大正12年) - 第2次山本内閣大蔵大臣に就任

1929年(昭和4年) - 濱口内閣の蔵相。金解禁に尽力

1930年(昭和5年) - 『世界不景気と我國民の覚悟』(経済知識社)を出版

1932年(昭和7年)2月9日 - 選挙運動中に血盟団小沼正に暗殺される(血盟団事件)。

栄典

1906年(明治39年)4月1日 - 勲五等瑞宝章[14]

1915年(大正4年)11月10日 - 勲四等旭日小綬章[15]

1920年(大正9年)11月1日 - 旭日中綬章[16]

1929年(昭和4年)3月4日 - 勲二等旭日重光章

1916年(大正5年)4月1日 - 勲三等瑞宝章[17]

1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章[18]

家族

夫人は、
男爵毛利重輔の長女・チヨ。

子息、井上四郎アジア開発銀行総裁を務めた。

子息、井上五郎の妻は、木戸幸一の三女の井上和子(元宮内庁侍従職女官長)[19]

婿三宅重光(日銀理事、東海銀行頭取・会長、東海旅客鉄道会長[20])。

登場する作品

日本暗殺秘録 - 演:野村鬼笑

城山三郎男子の本懐』- 濱口雄幸と共に主人公

長時間ドラマ『男子の本懐』(1981年のNHKドラマ特番)- 城山の小説を原作にしたドラマ。近藤正臣が井上を演じた。


脚注^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、32頁。
^ 「恒久的な組織として設立、理事長に井上準之助」『東京日日新聞』1926年4月7日(大正ニュース事典編纂委員会『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.384 毎日コミュニケーションズ 1994年)
^ 中村隆英『昭和恐慌と経済政策』講談社学術文庫
^ 評伝小説に、高橋義夫『高橋是清と井上準之助』学陽書房・人物文庫、2005年
^ 鈴木隆『高橋是清と井上準之助』文春新書、2012年、p140
^ 中野剛志『日本経済学新論』ちくま新書、2020年、p.300
^ 大前信也『昭和戦前期の予算編成と政治』木鐸社、2006年
^ 井上の横死が民政党の選挙資金の枯渇と総選挙での敗北をもたらしたとされている(井上寿一『政友会と民政党』中公新書、141頁)。
^ 涙さそう井上前蔵相、白楽天詩集も納棺『東京日日新聞』昭和7年2月13日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和6年-昭和7年』本編p116 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
^ (株)井上酒造-日本酒と本格焼酎、大分・天領日田の蔵元 2011年現在も大分県日田市で清酒「角の井」や焼酎を製造している。生家は、「清渓文庫」として保存され、9月から11月に限って一般公開されている。
^ 杉山伸也「井上準之助研究ノート(1)」「書斎の窓」N0.610 p.39 有斐閣 2011年12月
^ 『日本近現代人物履歴事典』秦郁彦東京大学出版会、2002年。
^ 『晩翠放談』土井晩翠河北新報社、1948年

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