井上喜久子
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10月20日この日自身のTwitterにて、17歳と1万5000日を迎える[17]
人物・特色
声優になるまで
東京都で生まれる
[6]。元々は東京で生活をしていたが、幼稚園の年長頃に神奈川県横須賀市に引っ越しをする。小・中・高、短大生の頃まで含めても、表現することにまったく興味がなかったが、本を読んで想像することは好きだったという[18]。姉は宝塚のファンで演劇部に所属していたこともあり、一緒に舞台を観に連れて行ってもらったりしていた[18]。しかし影響されて「自分から表現したい」と思ったりすることはまったくなかったという[18]。井上の最古の記憶は、母親と離れるのが嫌で幼稚園に行くことを拒否して泣いていたことだというが、その在園時のクリスマス会で、キリスト降誕の舞台劇に登場する女神を演じたのが、人生初の芝居経験だったという。子供の時はぼーっとした子供で、マイペースで、読書好きで空想して遊んでいたという[18]。小学校の低学年から中学時代までは外で遊ぶことが多く、友達と池でザリガニ釣りをしたり、野原に作った秘密基地で、ままごとや人形ごっこに興じていたが、実姉ともよく遊び、姉の友達とよくケイドロ(井上の住んでいた地域では『どろじゅん』と呼んでいた)をしていたという。ままごとでは母役が多かったという[19]。そんな遊びの中で近所の駄菓子屋へ通うようになり、駄菓子屋が本屋の仲介もしていた関係から、小学1 - 2年の頃に、母親が世界名作童話集を定期購読で買い与え、毎月届く童話を読むことが井上の日課となった。井上は童話を読む際、無意識に発声して読んでいたといい、その頃から声優を目指す予兆があったと自著で語っている。小さい頃に職業としての声優があることを知り、なんとなく「面白そうだな」という漠然とした憧れはあったという[3]。中学生の頃は、ピンクレディーが好きであり、姉と2人で一緒に歌って、踊っていた[18]。その頃の将来の夢はテレビドラマで流行していたスチュワーデス、学校教師、花屋、嫁のように女子が憧れる職業になりかたったといい、小学4年生の時に1ヶ月くらい入院し、お世話になった看護士が優しく看護士になりたいとも考えていた[18]。中学生まではピアノをしていたが、講師が亡くなってしまったため、辞めたという[18]。中学時代はギター部、高校に入ってからは『エースをねらえ!』に影響されて軟式テニス部に入部するも[18]、向いてないと自覚して3カ月で退部、一転して帰宅部となり、文学に読み耽るようになる。文学少女になるきっかけは三島由紀夫の『仮面の告白』で、そこから石川啄木太宰治を好んで読むようになった[13]。高校生になってからは、本が好きなため、漠然と図書館司書、国語の教師になりたいなと思うようになった[20]。高校時代は単独行動が多く、横須賀のジャズ喫茶で読書をしたり、授業後にふらっと海で泳いだりしていたという。高校3年になると外の世界に興味を持ち、生まれて初めてシェーキーズでバイトを経験し、店長から「笑顔がとても良い」と褒められて自信をつけ、そのバイト先で知り合った友人と2年間、水曜ロードショーで放映された『ビッグ・ウェンズデー』に影響されてサーフィンに打ち込むなど、刺激的な生活を送る[21]。しかし、将来の道筋を考える重要なタイミングであった高校3年生の時に、大学に進学して勉強したい気持ちにはなれず、かと言って就職する実感も湧かず、自分でもよくわからないくらい何もできない、スランプを味わう。高校卒業後は、別に秘書になりたかったわけではないのだが、本人曰く「何となく」秘書科のある専門学校に進学したものの、「やっぱり勉強がしたいな」と思って長続きせず、半年後[22]に辞める。その後は教員となるために、短期大学中学校教員免許国語)と、図書館司書の資格を取得したが[20]教育実習先の中学校で、生徒に見くびられ放題だったことに愕然とし、授業中に男子生徒数人が教室でバドミントンを始めた際に注意できなかったことが決定打[23]となり、教師になることを挫折する[13][24]。教育実習は、就職活動の一環でもあっただけに、友人たちが仕事が決まる中で、井上は教師に挫折したことから将来に対して悩んでいたが、計算ができず、家計簿をつけることも事務職にも向いていない[25]と不安を募らせていた。その時期に『アタックNo.1』の再放送を見て、その放送回が非常に感動できるエピソードであり、大人の自分をこんなに感動させたことに感銘を受け、頑張っている鮎原こずえの姿に心を打たれていた時、「これって誰がしゃべってるんだろう?」とふと思い、「この声を出しているのは声優さん? 声優さんっていいかも……!!」と雷に打たれたような衝撃だったといい[24][26]、そして姉が持っていた雑誌『an・an』の広告欄にあった東京アナウンスアカデミーの声優コースの募集[27]を見て、すぐに電話して声優を志す[28]。その後、昔から好きな声の人物である増山江威子がいたことに気付いたという[26]。子供の頃から普通に色々なアニメを見ていたため、声がテレビから流れるたびに、「あー好き、この人の声好き!」と思っており、声優の勉強を始めてから、その「好き」が繋がったという感じだったという[26]。増山とはプロになってから、仲良くさせてもらっているという[26]久川綾が増山と同じ青二プロダクション所属なため、井上のことを紹介してもらい、毎年皆の誕生日にお祝いで食事に行ったりするくらい、仲良くさせてもらっているという[26]。井上曰く増山は会うたびに、たくさんの愛をくれる、「永遠に憧れの人」、と語る[26]。短大卒業と同時に恵比寿にある同校の1年コースに入所[29]、授業料は全て近所の花屋のバイト料で賄い、親の援助を受けなかったが、両親は全く反対しなかった[30]。また井上の友人も「きっこ(井上)は会社員じゃないから」と、喫茶代を全額立て替えるなど、応援してくれたという[31]。地元の友人に伝えた時は、きょとんとしていたが、あまりたくさんの人物には話していなかった[32]。その後、しばらくは、ほとんどの人物が就職していたことから友人に会うと、皆ご飯をごちそうしてくれたという[32]。入所した時は、「絶対に声優になろう」と決めていた[32]。一度挫折しているため、ここで挫折したらもうおしまい、崖っぷちであり、なおさら声優への思いが急激に高まったような気がしていた[32]。その時に「ここでダメだったらこれから先は何をやってもダメだ」のような気持ちになり、養成所ではものすごく気合いを入れて授業を受けていた[24]。「クラスの中でいちばん声優になりたいと思っているのは私だ!」くらいのことは考えていた[24]。クラス全員が声優を目指していたなかで、「みんなよりうまくなるために」と思い、色々工夫しており、たとえば先生から「毎日1回『外郎売り』を朗読しなさい」と言われていたところ、「よし、私は毎日3回やろう。しかも1回ごとに声の高さを変えてやろう」と思っており、発声練習は周囲の迷惑になることから家ではなかなかできなかった[24]。その時にバスタオルを巻いた物を口に当てて声を抑えながら毎日続けており、短大時代までは姉から舞台、芝居に誘われても行かなかったくらい役者の世界に興味がなかったが、そんなことを続けていたため、両親、姉は「どうしちゃったんだろう、この子は」と思ってたんだと語る[24]。当時はヘコむことばかりで、日記帳を読んだところ笑ってしまうくらい、毎日落ち込んでいた[32]。しかし落ちているからこそ、這い上がる自分がおり、「ただがむしゃらに、とにかく頑張ろう」と思ったという[32]。週1の夜学[30]レッスンを受けて課程修了後、オーディションを受けて[33]江崎プロダクション(現・マウスプロモーション)の養成所にさらに2年通う[24]
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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