井上和彦_(声優)
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学校で決められた所に行くのは嫌であり、駅弁をもって何処かへ行くようであり、手作りの弁当でなければ食べた気しなく「じゃボウリング[注 3]場にしよう」ということで、当初は声優や役者の仕事に興味がなく、当時大ブームだったプロボウラーを目指して高校卒業後、ボウリング場に就職する[2][3][16][17]。しかし、思い描いた理想と現実のギャップに戸惑い、人と話すことが苦手になり半年で退職する[16][17]。井上は当時を振り返って「色んなことがあって人間不信に陥り、他人が乗っているエレベーターに一緒に乗ることさえ苦痛だった」と語っている[16]。その後、2か月ほど一人暮らしのアパートに引きこもって過ごすが、生きるために働かねばと発奮し、テレビ局の大道具係の仕事を始める。井上は「道具を扱うだけの仕事だろう」と高をくくって選んだと語っているが、実際にやってみたらハードで驚いたという。しかし、この仕事で心身ともに弱っていた自分が強くなれ、感謝していると語っている[16]

そんな折、ボウリング場勤務時代の同僚が声優になりたいと言うので、当時銀座にあった養成所・テレビタレントセンター東京校の試験を一緒に受けることになる[16]。最初は声優志望ではなかった井上だが、人と話す訓練のつもりで試験を受けたら見事に合格したという。なお、井上を誘った同僚は試験に落ちた[17]。その養成所の講師には、後年井上の師匠となる永井一郎がおり、養成所に通っていた1年間のうち後半の半年間は永井の指導を受けた[17][18]。養成所に通っていたころは、喫茶店立ち食い蕎麦屋ビラ配り、ビルの清掃員など様々なアルバイトを掛け持ちしていた[16]。養成所の同期には郷里大輔中谷ゆみ川島千代子がいて、その中でも同期の郷里とは同じクラスだったことで仲が良く、アルバイトを探していた時に郷里から仕事を紹介してもらったこともあった[16]

養成所を卒業後は、講師である永井の推薦で青二プロダクションに所属する[16][17]。所属事務所の経歴は、青二プロダクション[16][17]ぷろだくしょんバオバブ[18]81プロデュース[19]大沢事務所[1][20]元氣プロジェクトとなっている。元氣プロジェクト移籍後社長に就任。妻の越智静香が副社長を務めた[21]。その後、井上和彦、越智静香夫婦でB-Boxを設立[8][11]。養成所時代から、CMテレビドラマの仕事を貰っていたことから、井上は当初「わりと簡単にお仕事をもらえる世界なのかな」と甘く見ていたが、プロダクション所属になってからは仕事をするよりアルバイトをする時間の方が長かったと回想している[16]
キャリア

初めての仕事はラジオCMであった[13]テレビアニメとしてのデビューは『マジンガーZ』(1973年)の兵士役で[10]、『UFOロボ グレンダイザー』(1975年)で初めてレギュラーの座を獲得するものの、1回呼ばれただけで降板させられた[16]。この経験について井上はとても悔しかったと語っており、アパートの部屋で枕に顔を押し付けて泣いたという[16]。それ以来、近所の河原に行っては「大変です! UFOが来ます…」というその時の台詞を繰り返し発声して練習したと振り返っている[16]。その後『一休さん』(1976年)の哲斉役で初めて名前のある役に抜擢され、『キャンディ・キャンディ』(1976年)のアンソニー・ブラウン役を得て、『超合体魔術ロボ ギンガイザー』(1977年)の主人公白銀ゴロー役で初の主演となった[17]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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