五街道
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その他の資料にも道幅は5と記されているものが多くあるが、並木敷きを含むかについては街道を建設する上での疑問があり、江戸時代中期の寛政元年(1789年)に並木敷きを両側9尺以上確保した上で道幅は2間以上あればよいとの回答文書が出されている[12]

五街道の実態については、江戸時代末期に発行された『宿村大概帳』という現代の道路台帳に匹敵する資料に詳しく残されており、標準的な道幅はおおよそ3間から4間(5.4 - 7.2メートル)、江戸に近いところでは5間(9メートル)というところが多い[13]。また、駿府城浜松城の付近には道幅6 - 8間(10.8 - 14.4メートル)というところもみられ、箱根峠宇津ノ谷峠鈴鹿峠などの山間部では道幅2間(3.6メートル)とされている[14]。坂道の勾配については、山道以外のところで最大10 - 13パーセント、箱根峠で最大30 - 35パーセント程度あったとの調査結果が出されている[14]箱根旧街道の石畳

路面構造は、馬車が発展しなかった江戸時代において徒歩を基準としており、徳川幕府3代将軍家光の時代にあたる慶安元年(1648年)、江戸市街の「道路築方並びに浚方」に道路の補修方法について出された布令には、道路の悪いところに浅草砂に海砂を混ぜた上質砂で敷きならして中高に築き、道路の溝が停滞しないように浚うことと指示されている[15]。このほか、運送が盛んだった伏見 - 京都間や大津 - 京都間の街道では牛車用の車道と人馬道を歩車分離の考え方で区分し、2条の輪道に花崗岩の厚板の車石を敷き並べ、牛道には砂利を敷きならした[16]。江戸時代後期にあたる文久3年(1863年)の14代将軍家茂上洛の際には、箱根の山道を改修して丸石で舗装したという記録が残されており、現在の箱根の旧街道にも往時の石畳がよく残されている[17]

幕末期に来日したイギリス駐日公使オールコックは、東海道を指して道路の整備状況について、道幅が広く平坦で、十分に砕石で突き固められていて、両側の並木により通行者を日差しから守り、ヨーロッパの最も立派な道と比肩する大変高い価値のあるものと評価している[18]
維持管理

五街道を総括管理していたのは道中奉行で、日常的な管理組織の基準はあきらかではないが、原則的に道中奉行が街道の維持管理の執行を沿道の宿村に割り当てて、その執行責任を負わせた[19]。交通量によっては沿道地区村で間に合わない場合があり、沿道に直接接しない周辺の村々にも割り当てが及び、その割り当てられたそれぞれの区間を掃除丁場(そうじちょうば)といった[19]。村々から掃除丁場までの距離は、大半は1里未満であったが、最も遠いところでは5里というところも見られ、5里以上離れた村への割り当ては見られていない[19]。こうした村々への割り当ては助郷制度にも見られ、割り当てられた村は重複していたと推察されている[19]。ただし、峠越えなどの山中では形式上は沿道村負担としながらも、実質的に藩主負担としていたり、沿道の実情に合わせて配慮がなされていたとみられている[20]

また、並木の管理は沿道の宿村には任されず、その土地の管理区分に従って幕府直轄地では代官が、私領地では大名が責任を負った[21]
街道並木日光杉並木(栃木県日光市)

五街道では並木が植えられており、樹種は植えられている場所の標高によって異なり、平地では松が大部分を占め、杉・竹・落葉樹などがそれに続くが、標高が高くなるに従って杉と竹が割合を多く占めた[21]。植えられ方については道の左右片側だけの場合や、両側に揃っていた場合などまちまちで、場所によっては並木が存在していなかったところもあったと見られている[注釈 1]。設置した当初の目的を示す史料は見つかっておらず、はじめは通行者の便宜のために植えられたものと考えられている[22]。しかし、時代の経過とともに設置の目的も変化しており、街道設置からおよそ160年後にあたる江戸時代中期の宝暦12年(1762年)の布達「東海道筋並木之儀」では、並木とその周辺の田畑との間に定杭を立てるように指示が出されていて、並木が街道の幅を確保するための手段となっていることを伺わせている[22]

日光街道杉並木は別な目的で植えられた例であり、松平正綱が主君家康の菩提を弔うために、自費で20年以上の歳月をかけて植え続けたものである[23]

現在では並木のほとんどは昭和時代に入って国道の拡幅工事などで伐採されてしまい、当時の街道の状態を残している場所、とりわけ並木がある街道で往時の面影を残すものは少ないが、日光杉並木草加松原などは当時の状況を視覚的によく残す貴重な歴史的遺産となっており[24]、「日本の道100選」にも選定されている。
その他の五街道の解釈と定義

江戸幕府が上記五路をもって五街道としていた旨は、明治新政府が編纂した古事類苑地部道路の概説にもあり、これには以下の趣旨が書かれている。

徳川幕府は、江戸を起点とする東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中を五街道と称したこと

五街道のほか、水戸佐倉街道、伊勢路、中国路等を本海道と称したこと

その他の支路を脇往還と称すること

実際には、江戸幕府が作成した伝馬宿拝借銭覚という書で日光道中と奥州道中を一つに合わせて佐倉街道をその書内で挙げていたり、また驛肝録も同様に佐倉街道を挙げながらもそれを水戸道中と称したりと、常に一貫した用い方がなされていた訳でもない[25]


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