五経
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このように六経としてまとめられたのであるが、始皇帝による焚書坑儒楚漢戦争によって書物の伝承が途絶えそうになった。しかし、一部の経師たちが口頭で伝承したり、竹簡を隠すことによって漢代に経書を伝えた。この時『』は失われて、残りの五経が武帝の時、学官に立てられた。これがいわゆる五経博士である。なお『礼』として立てられたのは現在の『儀礼』という書物であり、礼の「士礼」部分のみしか伝わらなかったと言われる。その一方で民間に眠る失われていた書物の採集が行われた。これらは当時の隷書今文)ではなく、古い文字、いわゆる古文でかかれていて、「古文経」と呼ばれるが、当時、学官に立てられていた経書(今文経)とは違う系統のテキストであった。これにより今文を掲げる学者と古文を奉じる学者による闘争が起こり、前漢末、には劉?によって『春秋左氏伝』『毛詩』『逸礼』『古文尚書』といった古文経に学官が立てられた。しかし、新は後漢王朝によって倒され、新を否定するという政治的な理由から後漢では再び今文経に学官が立てられた。しかし、在野で力を付け、優れた学者たちを輩出した古文学者たちに押されて今文経学は衰退し、魏晋南北朝を経て唐代になると古文経の優位が確定し、唐朝が勅撰で作った五経の注釈書『五経正義』では古文系統のテキストが採用され、現在に至っている。
順序

六経の並べ方は今文と古文で異なる。

今文では詩・書・礼・楽・易・春秋であり、孔子が学んだ順序に基づくと思われる。

古文では易・書・詩・礼・楽・春秋であり、時代順に並べられている。『易』は宇宙生成にまつわる陰陽未分化な太極から扱い、その基本となる八卦の製作者は伏羲とされる。『書』はから三代の歴史書、『詩』と『礼』『楽』は周代に作られ、『春秋』は春秋時代の魯で作られた。
備考

中世日本においては、『楽経』に代わって『孝経』を加えて「六経」と称した事例が見受けられる。薩南学派の祖とされる室町時代桂庵玄樹が著した『家法倭点』の中に「六経者五経加孝経也」と記され、六経とは五経に『孝経』を加えたものであるとしている。ほぼ同時代に上杉憲実足利荘に対して出した規則では(憲実が再興した)足利学校で教えて良い学問として「四書」と並んで「六経」が挙げられており、これも『孝経』を含めたものと考えられている[1]
脚注^ 菅原正子「足利学校の学問と教育」『日本中世の学問と教養』同成社、2014年 ISBN 978-4-88621-673-1

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