五社英雄
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2歳上の兄は戦死し[5]空襲により英雄の実家も焼失した[1]。予科練から復員した英雄は一家を養うために食料調達に奔走し、その後は米軍基地の売店でアルバイトをした[1]。基地の軍用品を銀座闇市に横流しをして金を稼いだ英雄は、明治大学商学部へ入学した[1]。同期の友人の証言では、英雄は大学ではボート部に所属していたという[1]
就職

明治大学商学部卒業後、五社英雄は映画監督を目指し、各映画会社の就職試験を受けたが全て不合格となってしまった[1]。当時は映画会社の社員でなければ監督にはなれなかったため、五社は直接に大映永田雅一の自宅にも日参して懇願したが叶わなかった[1]

1年間の就職浪人を経た五社は、少しでも映画界に近いところとしてマスコミ業界を目指し、民放ラジオ局のニッポン放送に就職した[1]報道部に配属された五社は、読売ジャイアンツ宮崎キャンプの取材記者などをした後、1959年(昭和34年)のフジテレビ開局に向けての人事異動により、1958年(昭和33年)初頭にラジオのクイズ番組や音楽番組のディレクターに異動になった[1]

しかしながら、どうしても映像業界に行きたい五社は、同期入社でフジテレビの編成部に移った村上七郎に、テレビドラマの演出をやりたい旨を話した[1]。報道部入りを勧める村上の提案に一旦引き下がった五社だったが、信奉する黒澤明の演出研究の資料書類を持って再び訪れ、ドラマ演出への希望を滔々と語り懇願すると、村上はその熱意に押され常務に掛け合い、1958年(昭和33年)6月2日に五社は念願かなってフジテレビ出向となり、1959年(昭和34年)1月に正式移籍して社員となった[1][3]
ドラマ演出

スポンサー企業の意向に合わせてバラエティーなどを企画した後、五社は1959年(昭和34年)6月に初めての演出テレビドラマシリーズ『刑事』を手がけた。『刑事』は高松英郎主演で生放送ドラマであった(当時は録画技術がなく全て生放送であった)[1]。タイトルは「刑事」だが、偽札作りをする悪党がメインとなり、「破滅していくアウトロー」がテーマで、スピーディーな演出が社内で高評価を得た[1]

自身の目指す生々しい迫力のあるアクションを体現できる俳優を探していた五社は、当時まだ有名俳優ではなかった丹波哲郎の野性味と堂々たる体躯に着目した[1]。五社は日本テレビで『丹下左膳』のセットで撮影中の丹波を訪れるといきなり初対面の口火で、自作のギャングドラマ『ろくでなし』に出演してほしい、と単刀直入に言った[1]

江戸っ子の丹波と、チンピラ流コミュニケーションを駆使する五社は馬が合い、『ろくでなし』の成功後も、1960年(昭和35年)1月スタートのシリーズ物『トップ屋』でコンビを組むなど、付き合いが長く続くことになる[1][6]

高視聴率のドラマを連発し、フジテレビの看板ディレクターとなった五社は、黒澤明のような時代劇の演出を目指した[6]。1960年(昭和35年)10月の浅沼稲次郎暗殺事件発生により警察から、刃物ピストルなどの凶器を使う場面の自粛をテレビ局が求められたこともあり、時代劇なら非現実的なファンタジーとして暴力的描写も許容されうる、という思いも五社にはあった[6]

五社は、当時フジテレビに売り込みに来た無名の殺陣師・湯浅謙太郎が率いる「湯浅剣睦会」と組んだテレビ時代劇『宮本武蔵』の殺陣において、竹光ではなく真剣と同じ重さを持つ危険なジュラルミン製の模造刀を採用し、役者の迫真の演技を引き出した[6]。五社の演出する立ち回りは、限りなくリアルに近い死闘であったが、テレビスタジオのセット内だけの撮影では今一つの限界もあった[6]
『三匹の侍』成功以降

五社は、入社2年目の編成部員の白川文造と共に企画を拡げていき、1963年(昭和38年)のテレビ時代劇『三匹の侍』で、丹波哲郎のほか、平幹二朗長門勇をキャスティングした[6][3]。当時、長門は浅草のストリップ小屋でコントをしながら下積み生活をしていた無名の役者であった[6]

『三匹の侍』の殺陣では、刀と刀がぶつかる金属音や、刀を振った時の風の音、人が斬られる時の肉が裂ける音が付けられた[6][2]。映画のようなカメラワークやロケが望めないテレビ時代劇において迫力のある立ち回りを演出するため工夫されたこうした「効果音」の演出は、五社が初めて時代劇で編み出したものであった[6][2]

激しいアクションのテレビ時代劇『三匹の侍』の全26話は高視聴率を保ち続け、大成功を収めた[6]。翌1964年(昭和39年)には映画版『三匹の侍』も製作された。この映画は、丹波哲郎が創設した「さむらいプロダクション」が製作に乗り出し、松竹の京都撮影所で撮影された[6]。当時、映画業界人は、テレビの人間を「紙芝居屋」と見下げていた[7]

松竹のスタッフはテレビ局のディレクターの五社に反感を持ち、様々な嫌がらせしたこともあったが、平然としてエネルギッシュな演出をみせる五社と次第に打ち解けていった[6][3]。この頃、五社は出かける前に「やるぞみておれ」という歌詞の『出世街道』のレコードを毎朝聴いていたという[3]。映画『三匹の侍』はテレビ局出身初の映画監督作品となったが、当時の映画ジャーナリズムから黙殺された[6]

しかし衰退の映画会社にとって五社の演出力は魅力だった[6]。当時任侠路線に進んでいた東映は、その路線変更の会社の方針に反抗する中村錦之助のために、巨匠ではない五社を起用し『丹下左膳 飛燕居合斬り』など低予算の時代劇を製作した[6]。同じく東映製作の時代劇『牙狼之介』『牙狼之介 地獄斬り』では、五社は俳優座夏八木勲を抜擢して西部劇風に演出した[6]

フジテレビの屋上で殺陣の特訓稽古をつけられた夏八木は当時を振り返り、刃引きはしてあるものの重量は真剣と同じ鉄身(ジュラルミン刀)は「パシャーン」といい音がし、火花が散ることもあったと語っている[8][9]。夏八木と五社はお互い下町育ちで、「なっちゃん」「五社亭」と呼び合う仲になっていった[8][6]

それまでの様式美的な殺陣とは対極的なリアル感を表現していく五社演出の殺陣の流儀を学んだ夏八木は、撮影時は竹光ではあったものの力加減が鉄身の要領でやったため、斬られ役の竹光を折ってしまい相手をケガさせてしまうこともあったという[8][6]

その後、1969年(昭和44年)にフジテレビが映画製作に乗り出すこととなり、多額の製作費を使った映画の監督を任されることとなった五社は、フジ製作第1作目『御用金』、第2作目『人斬り』のアクション時代劇を大成功させた[6]


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