五月革命_(アルゼンチン)
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ナポレオンが導入した大陸封鎖令でイギリスはスペイン領植民地との交易を必要としたが、植民地は宗主国とのみの交易に制限されていた[9]。経済的な目的を達成するため、イギリスは当初リオ・デ・ラ・プラタの侵略を開始した[10]。イギリスは侵略に失敗した後、イスパノアメリカのスペインからの解放の願望を促進することを選んだ[9]

1808年3月19日、スペイン王カルロス4世は、王太子フェルナンド7世に譲位したが、フェルナンド7世はナポレオンの武力の圧力のもと5月5日に王座を父の元王に返上した[11]。ナポレオンの要請により、一旦カルロス4世に返上された王位は、即座にナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルトに譲位された[11]。ジョゼフの即位はスペインで厳しい抵抗を受け、対フランスの抵抗運動が始まり、スペイン各地でフンタが設立され、王の名のもとで統治した[12]。8月には各地のフンタを統括する組織の設置が合意され、9月にアランフエスで最高中央評議会の会議が行われた[12]。その後戦局が不利になると、中央評議会はセビリヤに移動し、最終的にはカディスに敗走し、そこで1810年1月、評議会は解散し、5名で構成される摂政委員会に権能を移譲した[12]
国内の原因

スペインはそのアメリカの植民地に他国や外国領植民地との交易を禁止した[13]。スペインの経済は多くの植民地に莫大な供給をするほど十分な生産力はなかったため、この状況は副王領に損害を与え、経済的欠乏と不況をもたらした[13]。スペインから来るすべての物品は太平洋側のリマを通さなければならなかったため、ブエノスアイレスは密輸の基地となった[14]。この密輸は不法であるにもかかわらずほとんどの現地の当局は黙認し、時にはスペインとの合法な交易と同じ量が取引された[15]。これにより対立する2つの派閥の対立が現れた。産出品を海外に売りたいアセンダードらは自由貿易を望み、一方で密輸で利益を得る商人は、商品の価格が下がる自由貿易に反対した[16]。18世紀に入るとスペインの植民地貿易独占政策が緩和され、1776年にリオ・デ・ラ・プラタ副王領が設置されるとブエノスアイレスは本国との正式な交易の拠点に指定された[14]。廉価な外国産品の流入により、内陸部では港に対する反感が強まっていった[17]
クリオーリョとペニンスラール

依然ペニンスラールは高位聖職者、高級官吏、御用商人などとして新大陸に来ていた[7]。官職や教会内での出世に限りがあるクリオーリョたちの不平は、しかし現体制の維持を前提とする不平であった[18]。一方で、クリオーリョ支配層の経営するアシエンダの収益率は資産価値の年5%と低く、ペニンスラールと親族になることで家の没落を防ぐという関係であった[18]。しかし18世紀になるとスペイン北部のバスク地方やサンタンデルのモンタニャ地方出身の商業専従者が増え、血縁による閉鎖的な集団を作って植民地の商業を独占した[18]。彼らは信心深く勤勉であり、クリオーリョ支配層とは水と油の関係で、金はあるが無教養なガチュピン(ペニンスラールの蔑称)という言葉に、感情的な負荷が込められるようになった[18]。特に農牧業が基幹産業であったベネズエラとアルゼンチンで、クリオーリョ支配層は独立を志向するようになった[18]
英国のブエノスアイレス侵略

ブエノスアイレスは、二度の英国の侵略に反撃し成功した[19]。1806年6月、イギリス軍はブエノスアイレスに上陸して町を占領した[19]。軍は自由貿易を布告して、軍艦隊の後ろについていたイギリス商船団が入港し、にわかに町は賑わった[19]。だが、8月にブエノスアイレスの民兵軍が蜂起し、市街戦のすえにイギリス軍を撤退させた[19]。その翌年2月に再び攻めたが、今度は上陸もできずに撃退された[19]。どちらの侵略の間にもスペインからの援助はなかった[13]。この二度目の侵略への準備のために、禁止されていたにもかかわらず、クリオーリョたちの民兵軍が編成された[20]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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