五月革命_(アルゼンチン)
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スペインの助けを借りずに勝利したことで、クリオーリョたちは独立の可能性への確信を強め[13]、自治意識は著しく高まった[17]。副王体制の威信は失墜し、町は自由貿易の旨味を知った[19]
カルロティスモ

1808年3月、ナポレオンの侵略を逃れて、ポルトガル王室は、宮廷と政府の人員15000人とともに欧州を去り、植民地ブラジルのリオデジャネイロに到着した[21]。フェルナンド7世の姉妹のカルロータ・ホアキーナは、ポルトガル摂政内親王(当時)ジョアン6世の后だったが、自らの政治的な計略を持っていた[22]。スペイン王室の捕獲を避けると、カルロス4世の長女の彼女は、摂政としてスペインの副王領の支配をしようとした[23]。この計略を支援して、フランスのアメリカ大陸侵略を防ぐ目的でカルロティスモと呼ばれる政治運動が始まった[23]。この運動の支援者には、マヌエル・ベルグラーノやフアン・ホセ・カステリといったクリオーリョの政治家集団や、アントニオ・ベルーティやイポリト・ビエイテスの軍人らがいた[24]。彼らはこの運動を、欧州の政府の代わりに現地政府を作る機会、もしくは独立を宣言するための段階と考えた[25]サンティアゴ・デ・リニエルス副王をはじめほとんどのペニンスラールと一部のクリオーリョたちは、この運動にポルトガルの拡大主義志向が隠されていると疑い抵抗した[25]。カルロータ・ホアキーナの支援者らは立憲君主制を目指したが、その一方で彼女自身は絶対君主制を望んだ。この目標の食い違いが運動を弱らせ、運動は失敗に終わった[24]ポルトガル帝国の政治に強い影響を持った英国もこの運動に反対した。英国はスペインがいくつかの王国に分離することを防ぐことを望み、カルロータではこれを防ぎきれないと考えた[26]
前触れ
リニエルスの統治

1806年の英国の侵略を撃退したブエノスアイレスの人々は、ラファエル・デ・ソブレモンテが副王を続けることを許さなかった[27]。ソブレモンテは、戦争がまだ進行中であるのに国庫を持ってコルドバに逃亡した[28]。1778年に成立した法律では、外国の攻撃があった場合に国庫を安全な場所へ移動することを義務付けたが、それでも人々はソブレモンテを臆病者として見た[29]。ブエノスアイレス王立アウディエンシアは彼の帰還を許可せず、代わりに暫定副王として英雄の呼び声高いサンティアゴ・デ・リニエルスを選出した[27]。副王職がスペイン王ではなく、現地の政府機関に選任されたのはこれが初めてで、前例のないことだった[29]が、この任命は後にカルロス4世に批准された[30]。リニエルスはクリオーリョや奴隷たちを含むすべてのブエノスアイレスの人々に武装させ[31]、1807年の二度目のイギリス軍の上陸を阻止しようとするが失敗し、マルティン・デ・アルサガが率いる民兵が防衛に成功した[32]。この軍功で立場の強くなったアルサガは、リニエルスと対立した[32]

リニエルス政権はクリオーリョの間で人気があったが、アルサガやモンテビデオ総督のフランシスコ・ハビエル・デ・エリオなどのペニンスラールには人気がなかった[33]。彼らは新しい副王を指名するようスペイン当局に要請した[34]。半島戦争の勃発をきっかけに、デ・エリオはモンテビデオにフンタを樹立し、副王の権力を公には否定せずまたモンテビデオの独立を宣言することもせずに、ブエノスアイレスからのすべての命令を精査しそれらを拒否する権利を保有しようとした[35]

アルサガは、リニエルス排斥のための暴動を起こした[36]。1809年1月1日、アルサガが議長を務めるカビルド・アビエルトは、リニエルスの辞職と現地フンタの承認を求め、ペニンスラール民兵軍が反乱の支援のために集まった[37]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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