五月革命_(アルゼンチン)
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マリアノ・モレノのような少数のクリオーリョは独立する手段として暴動を支援した[38]が、ほとんどのクリオーリョはこれを支援しなかった[39]。彼らは、副王の政治的権力を無効にするために排斥を望む一方で、クリオーリョとペニンスラールの間の社会的格差を変えずに保持したいアルサガの意図を感じた[39]。コルネリオ・サアベドラが率いるクリオーリョの民兵軍は広場を包囲し、暴動を追い散らした[40]。暴動が失敗に終わった後、反乱者らは武装を解かれた[41][42]。これには多くのペニンスラールの民兵が含まれており、結果としてクリオーリョたちの力が増すことになった[41]。この策略の指導者たちは、モレノを除いて、カルメン・デ・パタゴネスへ追放された[43]。デ・エリオは彼らを解放し、政治亡命者としてモンテビデオに受け入れた[44]
シスネロスの統治

カスティーリャの最高中央評議会は、リオ・デ・ラ・プラタの政治的騒動を終わらせるため、リニエルスに代えて、トラファルガーの海戦にも参戦したベテランの海軍将校バルタサール・イダルゴ・デ・シスネロスを副王に任命した[45]。マヌエル・ベルグラーノは、リニエルスはスペイン王に副王として任命され、一方シスネロスにはそのような正統性を欠くのだから、リニエルスは反抗するべきだと提案した[46]。クリオーリョの民兵軍はリニエルス支持に前向きだった[46]が、リニエルスは反抗することもなく引き渡した[47]。ハビエル・デ・エリオは新しい副王の権力を受け入れ、モンテビデオのフンタを解散した[48]。シスネロスはペニンスラールの民兵軍を再び武装させ、過去の暴動の責任を許した[49]。アルサガは釈放されなかったが、自宅軟禁に減刑された[50]

アルト・ペルーでは、1809年5月25日に起こったチュキサカ革命(英語版)によって、チュキサカ総督のラモン・ガルシア・デ・レオン・イ・ピサロが退位させられ、代わってフアン・アントニオ・アルバレス・デ・アレナレスが就任した[51]。7月16日、ペドロ・ドミンゴ・ムリリョ大佐が率いたラパス革命では、ラパス総督が解任され新たなフンタが選出された[51]。スペイン当局による敏速な対応がこれらの反乱を打ち負かせた[51]。ブエノスアイレスから派遣された1000名の軍は難なくチュキサカの都市に入り、フンタを転覆させた[51]。ムリリョはラパスを防衛しようとしたが、彼の800名の軍はリマから派遣された5000人以上の軍に圧倒的に数で負けていた[51]。後に彼は他の指導者とともに首をはねられ、彼らの首は反乱の抑止のために晒された[52]。これらの対応が、アルサガをはじめとした暴動の首謀者らへの対応とは激しく対照的であったことで、クリオーリョのペニンスラールに対する恨みはより深くなった[53]
五月の週

五月の週は、最高中央評議会解散の確認に始まり、シスネロスの解任とプリメラ・フンタの創設で終わった[54]

1810年5月14日、去る1月に最高中央評議会が解散したことを伝えるヨーロッパの新聞を積んだイギリス軍スクーナー艦ミスルトゥ号が、ジブラルタルからブエノスアイレスに到着した[55]。セビリアの町はフランス軍に侵略されたままで、イベリア半島の大部分はすでに占領されていた[56]。新聞各紙は、評議会の元メンバーの一部がカディスのレオン島に逃げたことを伝えた[57]。これは、イギリス軍フリゲート艦ジョンパリス号がモンテビデオに到着した5月17日にブエノスアイレスで確認された。直近の新聞は、評議会のメンバーらが解散したことを伝えた[57]。シスネロスは英国戦艦を監視し、到着するすべての新聞を没収してニュースを隠そうとしたが、新聞のひとつがベルグラノとカステリの手に渡った[58]。彼らは他の愛国派にニュースを広め、崩壊した評議会が任命した現副王の正統性を疑った[58]。パトリシアス連隊長のサアベドラはこのニュースを知らされた時、シスネロスに対して行動を起こす理想の時がついに来たと決心した[59]


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