リニエルス政権はクリオーリョの間で人気があったが、アルサガやモンテビデオ総督のフランシスコ・ハビエル・デ・エリオなどのペニンスラールには人気がなかった[33]。彼らは新しい副王を指名するようスペイン当局に要請した[34]。半島戦争の勃発をきっかけに、デ・エリオはモンテビデオにフンタを樹立し、副王の権力を公には否定せずまたモンテビデオの独立を宣言することもせずに、ブエノスアイレスからのすべての命令を精査しそれらを拒否する権利を保有しようとした[35]。
アルサガは、リニエルス排斥のための暴動を起こした[36]。1809年1月1日、アルサガが議長を務めるカビルド・アビエルトは、リニエルスの辞職と現地フンタの承認を求め、ペニンスラール民兵軍が反乱の支援のために集まった[37]。マリアノ・モレノのような少数のクリオーリョは独立する手段として暴動を支援した[38]が、ほとんどのクリオーリョはこれを支援しなかった[39]。彼らは、副王の政治的権力を無効にするために排斥を望む一方で、クリオーリョとペニンスラールの間の社会的格差を変えずに保持したいアルサガの意図を感じた[39]。コルネリオ・サアベドラが率いるクリオーリョの民兵軍は広場を包囲し、暴動を追い散らした[40]。暴動が失敗に終わった後、反乱者らは武装を解かれた[41][42]。これには多くのペニンスラールの民兵が含まれており、結果としてクリオーリョたちの力が増すことになった[41]。この策略の指導者たちは、モレノを除いて、カルメン・デ・パタゴネスへ追放された[43]。デ・エリオは彼らを解放し、政治亡命者としてモンテビデオに受け入れた[44]。 カスティーリャの最高中央評議会は、リオ・デ・ラ・プラタの政治的騒動を終わらせるため、リニエルスに代えて、トラファルガーの海戦にも参戦したベテランの海軍将校バルタサール・イダルゴ・デ・シスネロスを副王に任命した[45]。マヌエル・ベルグラーノは、リニエルスはスペイン王に副王として任命され、一方シスネロスにはそのような正統性を欠くのだから、リニエルスは反抗するべきだと提案した[46]。クリオーリョの民兵軍はリニエルス支持に前向きだった[46]が、リニエルスは反抗することもなく引き渡した[47]。ハビエル・デ・エリオは新しい副王の権力を受け入れ、モンテビデオのフンタを解散した[48]。シスネロスはペニンスラールの民兵軍を再び武装させ、過去の暴動の責任を許した[49]。アルサガは釈放されなかったが、自宅軟禁に減刑された[50]。 アルト・ペルーでは、1809年5月25日に起こったチュキサカ革命
シスネロスの統治