五月危機
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当時のフランスでは赤い中国のGrand Timonier[5]こと毛沢東の著書「Le petit livre rouge de mao」(「毛主席語録」)が流行していた。それはパリのENS(高等師範学校)[6]の学生たちを通じてひろまり、左派知識人たちを活気づけ、学生や労働者を団結させる思想だった。学生はアメリカの覇権主義に反対するモデルとして毛沢東思想の書籍を読んだ。したがって中国への憧れも「五月革命」には投影されている。ただその憧れは思想的に深められることがなく、ロマンチシズムの色彩が濃かった。さらに当然なことながら、学生には政府を転覆させる力はなかった。つまり本物の武力による革命ではなくて、学生時代のモラトリアムな革命[7]だった。「 造反有理」をかかげた日本の1960年代の安保闘争同様、有権者の多数派の支持は得られず、現実の選挙・議会構成には大きな影響をおよぼすことがなかった。
騒動以前の戦後フランスの状況ド・ゴール大統領

第二次大戦が終わって植民地帝国だったフランスは第四共和政という政権の安定しない政治体制に移行した(1946-1958)。このあいだにベトナムとアルジェリアという2つの旧植民地独立の挑戦をうけ、インドシナ戦争(1946-1954)とアルジェリア戦争(1954-1962)に派兵した。インドシナ戦争で苦戦を強いられたフランス軍は1953年ディエンビエンフーで敗れ、ベトナムからの撤退を余儀なくされる。さらにフランスはアルジェリアの植民地維持に固執し、議会の混乱を招くと、泥沼のアルジェリア戦争(1954)へと突入してゆく。第四共和政が明確なリーダーシップを採りえない体制であったことから、第二次大戦の国民的英雄ド・ゴール将軍[8]はより大統領権限の強化された第五共和政を樹立(1958)し、アルジェリアやアフリカ各国の独立を容認した。
タイムライン

1968年3月15日付日刊紙ル・モンドにジャーナリスト、ピエール・ヴィアンソン=ポンテは「現在、私たちの生活を定義するものは退屈だ」、「フランス人は退屈だ。彼らは世界を揺るがす激動に参加していない」と書いた。その後の出来事は、「退屈」が反乱の強力な触媒として作用したことを示唆している[9]
1968年3月22日1968年のパリ。壁一面に張られた政治的主張のポスター。なにより多様でカラフルでポップだった。五月革命のヴィジュアルはゴダールとポスターの色彩で彩られる。

1966年以降に起こったストラスブール大学学生運動、教授独占の位階体制に対する民主化要求や既存の学生運動組織だったフランス全国学生連盟(UNEF)(英語版)、官僚主義への反発などが火種となり[10][11]、やがて運動は1964年に創立したばかりのパリ大学ナンテール分校(現在のパリ第10大学、ちなみにサルコジ大統領マクロン大統領もここの卒業生である)へと波紋をひろげ、1968年3月22日にはベトナム戦争反対を唱える国民委員会5名の検挙に反対する学生運動へと発展[12]、ソルボンヌ(パリ大学)の学生の自治と民主化の運動へと継承された。

のちに欧州議会の議員となったユダヤ系ドイツ人、赤毛のダニーこと「ダニエル・コーン=ベンディット」、フランス西部レンヌで美術教師となった全学連(UNEF)の副リーダージャック・ソヴァジョ(フランス語版)、国家教育名誉査察官になった反=スターリニズムの毛沢東主義者、アラン・ジェスマル(フランス語版)、革命共産党連盟(LCR)のスポークスマンになったトロツキスト、アラン・クリヴィンネ(英語版)らの指導者があらわれ、一部の労働者も学生に賛同して、運動は労働者にも波及してゆく。3月29?30日、ナンテール校の授業は中断された。
1968年5月1日

極右の学生組織「オキシデンタル・グループ(Occidental group)」がナンテール校を攻撃しようとしているという噂が広まり、緊張が高まった。
1968年5月2日

ソルボンヌの学生組合ビルの一部が燃え、オキシデンタル・グループによって非難される。ダニエル・コーン=ベンディットを含む7名ものメンバーは3月22日の運動の件で懲戒委員会に呼び出される。
1968年5月3日

ナンテール校の学部長はキャンパスの閉鎖を決定する。追放された学生およそ500名は、ソルボンヌ校を占拠する。それを追い払おうとする警察、フランス共和国保安機動隊(CRS)、大学当局と対立。100名以上の負傷者、20名の重傷者、数百名の逮捕者をだす。ソルボンヌ校は閉鎖された。学生はパリ市街ラテン地区のストリートへと雪崩れこみ、バリケードを築いた。オデオン座カルチエ・ラタンを含むパリ中心部で大規模なデモがおこなわれ、警察がカルチェ・ラタンへ踏みこんでこれを弾圧、いわゆる普通の学生もデモに参加し、区別のつかなくなった警察に無関係な一般市民も巻きこまれた。
1968年5月6日

再びカルチエ・ラタンおよびラテン地区で激しい衝突がおき、600名の学生と345名の警察官が負傷、422名が逮捕された。フランスの各地で高校生や大学生による連帯ストライキがおきた。7日、全学連(UNEF)が呼びかけた4万人デモがおこり、大学の再開を主張した。警察はカルチエ・ ラタンから撤退し、学生たちの「解放区」になった。9日、労働総同盟(CGT)とフランス民主労働総同盟 (CFDT) とが会合する。
1968年5月10・11日

米国とベトナムの交渉に参加する代表団の安全確保のため、警察の増員部隊がパリに到着した。全国高等教育職員組合 (SNES[13]) が警察による抑圧を非難し、高校生によるさまざまな行動委員会が組織された。フランス放送協会 (ORTF) は、一連の出来事の放送を禁止した。国民教育相と学生の交渉が行われるが,これは決裂に終わる。学生、労働者バリケードを築き、カルチエ・ラタン一帯を占拠し(「バリケードの夜」)、転がされた車が燃えた。警察251名、学生102名など計377人が重傷、418名が逮捕され、およそ60台もの車が燃やされた。警察の強硬な反応に学生と一般市民は団結を強めた。11日、それぞれの組合が共同で13日のデモ、ゼネスト決行を宣言した。フランス各地でのデモや占拠は続く。ポンピドゥー首相は学生達の要求に譲歩を見せた。
1968年5月13日

労働組合(CGT、CFDT、FEN)と左派政党は学生支援のために24時間のストライキを呼びかけた。


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