五月危機
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その結果、学生と労働組合はよりよい条件の「グルネル協定」(すべての賃金の10%上乗せと最低賃金の35%引き上げ[17])を締結した
著名人の反応

ジャン・ポール・サルトル=戦後フランスを代表する哲学者。左翼だが、ソヴィエト政権に批判的だったサルトルは五月革命を熱烈に支持した。革命運動のリーダー、ベンディットとインタヴューもしている。サルトルはキューバにも訪れ、カストロやチェ・ゲバラを知っており、学生の革命に肯定的だった。

アンドレ・マルロー=保守派で反ファシズムの文学者。1968年当時文化大臣だったマルローは同時にレジスタンス時代に知り合ったド・ゴール大統領の熱心な支持者でもあった。マルローの忠誠心は5月30日の「ドゴール支持」のデモへとつづく。終生をつうじてその熱い忠誠の思いはかわることはなかった。

ヌーベルバーグを代表する映画監督ジャン・リュック・ゴダール。時代の空気を読むことに長けていたゴダールはそれ以前から五月革命を予見するような作品を撮っていた。著書「ミル・プラトー」で有名なポストモダン哲学者ジル・ドゥルーズはゴダールの姿勢を擁護している。ジャン・リュック・ゴダール=ヌーベルバーグ(新しい波)の映画監督。すこしづつ政治的なモチーフに関心を示すようになったゴダールは、五月革命に先だつ1967年に「中国女」というマオイズム的な映画をつくった。この映画はナンテール校の生徒たちに強い影響を与えた。実際五月革命はゴダールのイメージで充満していた。ちょうど五月に開催予定だったカンヌ国際映画祭に対し、トリュフォーやポランスキーらと祭の中止を要求したが認められず、彼らの作品の上映はなくなった(カンヌ映画祭粉砕事件)。

ルイ・アルチュセール=マルクス主義の哲学者。アンチ=スターリニスト。思想面で大きな影響を五月革命に与えたとされる。アルチュセールの生徒たちは青年共産主義マルクスレーニン連盟(UJC(ml))を結成。革命中、大学やストリートで活発に活動する。

ギ―・ドゥボールの著書「スペクタクルの社会」。この本は消費される商品と人間との関係性を分析し、五月革命に強い影響を与えた。ギー・ドゥボール=左派系の詩人、映像作家、著述家。ドゥボールもまた五月革命に強い影響を与えた一人だった。彼はその著書「スペクタクルの社会」(1967)のなかで、新しい市民社会はスペクタクル(光景、ショー)化する商品を通じて人間疎外をうむことを指摘した。商品の語る真実っぽさ(スペクタクル)に囲まれ、個人そのものは商品のなかに解消されてしまう。このようなスペクタクルとリアルの境界を線引きすることが難しい状況が消費社会なのであり、それは新しい「状況」をつくることによって批判されなくてはならない(「状況主義」)。ドゥボールの提示したテーゼは68年を経て、いま現在のコンピューター情報社会を鋭く言いあらわしている。


1968年当時、パリ、エコール・ド・ボザールの准教授だったブルーノ・ケサンヌは高揚をまじえながら、五月革命について以下のように述べている[18]
「革命に参加したそれぞれの人は、ずっとその人自身と積極的に関わっていたんだ。それは不公平に妨害工作をしてやろうとしたのでなく、どうやったらフランスが走ることを止めることができるのかということだった。全世界は、彼らがいったん立ち止まって、その存在条件を社会に反映すべきなんだということに同意していたのさ」
騒動後のフランス国内
70年代パンク・ムーブメント英国人デザイナーのヴィヴィアン・ウエストウッド。ロンドン・パンクはファッションに大きな影響を与えた。とくにセックス・ピストルズとヴィヴィアン・ウエストウッドのファッションは衝撃的で、当時産業ロックなどで停滞していたロック界や、ファッション界に新たなる風をもたらした。

五月革命からしばらくのちの1970年代中盤に入ると、アメリカやイギリスのユースカルチャーの世界に「パンク」が登場する。パンクはアナーキズム、左翼、ダダ、ニヒリズムなどの傾向があり、権力に対する挑戦、不満、退屈によるストレスの爆発、DIY精神など、その精神そのものは五月革命と通底するところがある。もっともパンクは音楽であり、国家機能を停止させ、政府と直接的な政治交渉をするほどの集合的な力は生みださず、ある局所的なムーブメントであった。つまりファッションとしてのヴィジュアル面の影響が強く、真似しやすく、記号としての流通が簡単にできた。そのため政治思想としての反映ではなく、パンク・ファッション的が、おおくのデザイナーにインスピレーションを与えることとなった。マルコム・マクラレーンと組んでブティック「SEX」のデザイナーをし、セックス・ピストルズの衣装を手がけた英国のヴィヴィアン・ウエストウッドは億万長者になった後も、保守党のキャメロンに激しい抗議行動をおこなったり、緑の党を支持したりした。

レゲエやヒップホップの流行も起きた。米ソ冷戦構造下で発生したパンク革命は、資本主義社会体制下で実現が難しい、永遠の憧れとしての革命、実現しないユートピアへの憧れの側面が強かった。

パンクはアナーキストになりたい―(I wanna be anarchist[19](Anarchy in the UK-The Sex Pistols))若者だったが、五月革命の学生や知識人も社会主義に憧れを抱き、叶わぬユートピア実現のために戦ったのである。
セックス革命とアンチセックス映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタイン。有名プロデューサーのハーヴェイ・ワインシュタインは、女性へのセクハラやレイプを繰り返していた。権力をカサに着たその手口はMe Too運動によって告発され、厳しく非難され追放された。

68年当時、欧米においても性そのものは現在より抑圧されており、性表現や性関係は比較的につつましやかなものだった。聖書の価値観、キリスト教の教義では、婚前性交渉、婚外性交渉(不倫)、同性愛は罪であるからだ。ヒッピーのフリーラブスピリットや五月革命などの対抗文化を受けて性はより広範にわたって「表現されるもの」となり、映画、小説、文学、舞踏、アニメ、ゲームなどのカルチャーを通じて一般にひろまり、身体意識の高まりを生むこととなった。また避妊具の発展、ファッションの簡易化、下着化、性映像の情報化、パーソナルメディアの発達とともに異性間での性交渉も日常に解放され、現在に至っている。一方で60年代の左翼的ウーマンリブとは正反対の、新しい規制を良しとする保守的フェミニストは性が搾取されるものと主張した。これは右派政治家と一致していた。また一方、対象となる女性の人権を無視した「セクハラ」はMe too運動のような新しいカウンター運動を生んだ。
文化大革命の実態報道

当時フランスで盛り上がった「毛沢東への憧れ」はやがて文化大革命の実情が明らかになるにつれて、「毛沢東への幻滅」へとかわった。文化大革命とは「下からの革命」ではなく、毛沢東の権力闘争に利用された「上からの革命」であり、それは五月革命が志向した精神とはかけ離れたところにあった。


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