五月危機
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1966年以降に起こったストラスブール大学学生運動、教授独占の位階体制に対する民主化要求や既存の学生運動組織だったフランス全国学生連盟(UNEF)(英語版)、官僚主義への反発などが火種となり[10][11]、やがて運動は1964年に創立したばかりのパリ大学ナンテール分校(現在のパリ第10大学、ちなみにサルコジ大統領マクロン大統領もここの卒業生である)へと波紋をひろげ、1968年3月22日にはベトナム戦争反対を唱える国民委員会5名の検挙に反対する学生運動へと発展[12]、ソルボンヌ(パリ大学)の学生の自治と民主化の運動へと継承された。

のちに欧州議会の議員となったユダヤ系ドイツ人、赤毛のダニーこと「ダニエル・コーン=ベンディット」、フランス西部レンヌで美術教師となった全学連(UNEF)の副リーダージャック・ソヴァジョ(フランス語版)、国家教育名誉査察官になった反=スターリニズムの毛沢東主義者、アラン・ジェスマル(フランス語版)、革命共産党連盟(LCR)のスポークスマンになったトロツキスト、アラン・クリヴィンネ(英語版)らの指導者があらわれ、一部の労働者も学生に賛同して、運動は労働者にも波及してゆく。3月29?30日、ナンテール校の授業は中断された。
1968年5月1日

極右の学生組織「オキシデンタル・グループ(Occidental group)」がナンテール校を攻撃しようとしているという噂が広まり、緊張が高まった。
1968年5月2日

ソルボンヌの学生組合ビルの一部が燃え、オキシデンタル・グループによって非難される。ダニエル・コーン=ベンディットを含む7名ものメンバーは3月22日の運動の件で懲戒委員会に呼び出される。
1968年5月3日

ナンテール校の学部長はキャンパスの閉鎖を決定する。追放された学生およそ500名は、ソルボンヌ校を占拠する。それを追い払おうとする警察、フランス共和国保安機動隊(CRS)、大学当局と対立。100名以上の負傷者、20名の重傷者、数百名の逮捕者をだす。ソルボンヌ校は閉鎖された。学生はパリ市街ラテン地区のストリートへと雪崩れこみ、バリケードを築いた。オデオン座カルチエ・ラタンを含むパリ中心部で大規模なデモがおこなわれ、警察がカルチェ・ラタンへ踏みこんでこれを弾圧、いわゆる普通の学生もデモに参加し、区別のつかなくなった警察に無関係な一般市民も巻きこまれた。
1968年5月6日

再びカルチエ・ラタンおよびラテン地区で激しい衝突がおき、600名の学生と345名の警察官が負傷、422名が逮捕された。フランスの各地で高校生や大学生による連帯ストライキがおきた。7日、全学連(UNEF)が呼びかけた4万人デモがおこり、大学の再開を主張した。警察はカルチエ・ ラタンから撤退し、学生たちの「解放区」になった。9日、労働総同盟(CGT)とフランス民主労働総同盟 (CFDT) とが会合する。
1968年5月10・11日

米国とベトナムの交渉に参加する代表団の安全確保のため、警察の増員部隊がパリに到着した。全国高等教育職員組合 (SNES[13]) が警察による抑圧を非難し、高校生によるさまざまな行動委員会が組織された。フランス放送協会 (ORTF) は、一連の出来事の放送を禁止した。国民教育相と学生の交渉が行われるが,これは決裂に終わる。学生、労働者バリケードを築き、カルチエ・ラタン一帯を占拠し(「バリケードの夜」)、転がされた車が燃えた。警察251名、学生102名など計377人が重傷、418名が逮捕され、およそ60台もの車が燃やされた。警察の強硬な反応に学生と一般市民は団結を強めた。11日、それぞれの組合が共同で13日のデモ、ゼネスト決行を宣言した。フランス各地でのデモや占拠は続く。ポンピドゥー首相は学生達の要求に譲歩を見せた。
1968年5月13日

労働組合(CGT、CFDT、FEN)と左派政党は学生支援のために24時間のストライキを呼びかけた。約80万人もの教師、組合員、政治家がパリの通りに集まる。ジョルジュ・ポンピドゥ首相は、ソルボンヌの再開を発表することで状況を落ち着かせようとした。学生は恒久的な占拠を宣言する。討論と会議は昼夜を問わずに行なわれた。
1968年5月14日

シャルル・ド・ゴール大統領は、ルーマニアに公式訪問。ストライキは多くのルノー工場に波及し、およそ50もの工場が労働者に占拠され、工場の責任者は労働者の手によって拘束され、工場に「赤い旗」が掲げられた。5月17日までに20万人がストライキを決行、この数字は翌日のストライキで200万人にふくれあがり、その後1週間でフランス人労働者のおよそ2/3にあたるおよそ1千万人が参加したと言われる。
1968年5月15・16日学生に占拠され、旗がひるがえるパリ・オデオン座。パリは瞬間的に新勢力に占拠され、またもとの日常へともどっていった。

ル・フィガロ紙が「権力はストリートにある」と報道。パリ、オデオン座を学生が占拠。タクシ―運転手たちがストライキを宣言。16日、より広域にデモとストがひろがる。
1968年5月17・18・19日

17日、フランス共産党が左派の共通プログラムを呼びかけ、鉄道(SNCF[14])もストライキ。18日、極右勢力による反共産主義デモが行われ、ストラスブール大学で自治が宣言される。19日、フランス国鉄・パリ市交通公団・郵便通信電話局でストライキ、燃料不足が始まる。
1968年5月20日

ほとんど全てのセクターでゼネストに近い状態になった。全学連(UNEF) とフランス民主労働総同盟(CFDT)(英語版)が記者会見をひらき、談上の「労働者と学生の闘争は同じである」という語はスローガンとなり、教師達の組合の枠を超えてストライキがひろがるきっかけとなった。フランス放送協会(ORTF)は放送を中止する。
1968年5月21日

銀行や繊維産業等も含めた大規模なゼネスト、フランスの交通システムはすべて麻痺状態に陥った。
1968年5月22日

フランスでは800万人以上の人々がストライキを行なった。ドイツを旅していたダニエル・コーン=ベンディットはフランスへの再入国を拒否される。
1968年5月24日

パリ市庁舎証券取引所を学生が襲撃、20万人の農業労働者や各大学もストライキに突入し、カトリック教会でも学生の要求に親和的な意見が高まる。デモはパリ市街をまわり「人民政府」を要求。はじめて2人の死者を出す。テレビ演説でド・ゴール大統領は国民投票を提案して世論を取り戻そうとしたが、演説はほとんど影響を及ぼさず、抗議者は辞表を要求した。ラテン地区での衝突で456人が負傷し、795人が逮捕された。ストラスブールボルドーナントリヨンでも衝突が起こり、警察官がトラックで押しつぶされ、死亡している。


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