五月危機
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ソルボンヌの学生組合ビルの一部が燃え、オキシデンタル・グループによって非難される。ダニエル・コーン=ベンディットを含む7名ものメンバーは3月22日の運動の件で懲戒委員会に呼び出される。
1968年5月3日

ナンテール校の学部長はキャンパスの閉鎖を決定する。追放された学生およそ500名は、ソルボンヌ校を占拠する。それを追い払おうとする警察、フランス共和国保安機動隊(CRS)、大学当局と対立。100名以上の負傷者、20名の重傷者、数百名の逮捕者をだす。ソルボンヌ校は閉鎖された。学生はパリ市街ラテン地区のストリートへと雪崩れこみ、バリケードを築いた。オデオン座カルチエ・ラタンを含むパリ中心部で大規模なデモがおこなわれ、警察がカルチェ・ラタンへ踏みこんでこれを弾圧、いわゆる普通の学生もデモに参加し、区別のつかなくなった警察に無関係な一般市民も巻きこまれた。
1968年5月6日

再びカルチエ・ラタンおよびラテン地区で激しい衝突がおき、600名の学生と345名の警察官が負傷、422名が逮捕された。フランスの各地で高校生や大学生による連帯ストライキがおきた。7日、全学連(UNEF)が呼びかけた4万人デモがおこり、大学の再開を主張した。警察はカルチエ・ ラタンから撤退し、学生たちの「解放区」になった。9日、労働総同盟(CGT)とフランス民主労働総同盟 (CFDT) とが会合する。
1968年5月10・11日

米国とベトナムの交渉に参加する代表団の安全確保のため、警察の増員部隊がパリに到着した。全国高等教育職員組合 (SNES[13]) が警察による抑圧を非難し、高校生によるさまざまな行動委員会が組織された。フランス放送協会 (ORTF) は、一連の出来事の放送を禁止した。国民教育相と学生の交渉が行われるが,これは決裂に終わる。学生、労働者バリケードを築き、カルチエ・ラタン一帯を占拠し(「バリケードの夜」)、転がされた車が燃えた。警察251名、学生102名など計377人が重傷、418名が逮捕され、およそ60台もの車が燃やされた。警察の強硬な反応に学生と一般市民は団結を強めた。11日、それぞれの組合が共同で13日のデモ、ゼネスト決行を宣言した。フランス各地でのデモや占拠は続く。ポンピドゥー首相は学生達の要求に譲歩を見せた。
1968年5月13日

労働組合(CGT、CFDT、FEN)と左派政党は学生支援のために24時間のストライキを呼びかけた。約80万人もの教師、組合員、政治家がパリの通りに集まる。ジョルジュ・ポンピドゥ首相は、ソルボンヌの再開を発表することで状況を落ち着かせようとした。学生は恒久的な占拠を宣言する。討論と会議は昼夜を問わずに行なわれた。
1968年5月14日

シャルル・ド・ゴール大統領は、ルーマニアに公式訪問。ストライキは多くのルノー工場に波及し、およそ50もの工場が労働者に占拠され、工場の責任者は労働者の手によって拘束され、工場に「赤い旗」が掲げられた。5月17日までに20万人がストライキを決行、この数字は翌日のストライキで200万人にふくれあがり、その後1週間でフランス人労働者のおよそ2/3にあたるおよそ1千万人が参加したと言われる。
1968年5月15・16日学生に占拠され、旗がひるがえるパリ・オデオン座。パリは瞬間的に新勢力に占拠され、またもとの日常へともどっていった。

ル・フィガロ紙が「権力はストリートにある」と報道。パリ、オデオン座を学生が占拠。タクシ―運転手たちがストライキを宣言。16日、より広域にデモとストがひろがる。
1968年5月17・18・19日

17日、フランス共産党が左派の共通プログラムを呼びかけ、鉄道(SNCF[14])もストライキ。18日、極右勢力による反共産主義デモが行われ、ストラスブール大学で自治が宣言される。19日、フランス国鉄・パリ市交通公団・郵便通信電話局でストライキ、燃料不足が始まる。
1968年5月20日

ほとんど全てのセクターでゼネストに近い状態になった。全学連(UNEF) とフランス民主労働総同盟(CFDT)(英語版)が記者会見をひらき、談上の「労働者と学生の闘争は同じである」という語はスローガンとなり、教師達の組合の枠を超えてストライキがひろがるきっかけとなった。フランス放送協会(ORTF)は放送を中止する。
1968年5月21日

銀行や繊維産業等も含めた大規模なゼネスト、フランスの交通システムはすべて麻痺状態に陥った。
1968年5月22日

フランスでは800万人以上の人々がストライキを行なった。ドイツを旅していたダニエル・コーン=ベンディットはフランスへの再入国を拒否される。
1968年5月24日

パリ市庁舎証券取引所を学生が襲撃、20万人の農業労働者や各大学もストライキに突入し、カトリック教会でも学生の要求に親和的な意見が高まる。デモはパリ市街をまわり「人民政府」を要求。はじめて2人の死者を出す。テレビ演説でド・ゴール大統領は国民投票を提案して世論を取り戻そうとしたが、演説はほとんど影響を及ぼさず、抗議者は辞表を要求した。ラテン地区での衝突で456人が負傷し、795人が逮捕された。ストラスブールボルドーナントリヨンでも衝突が起こり、警察官がトラックで押しつぶされ、死亡している。
1968年5月25日

ド・ゴール主義の国務長官ジャック・シラクが主宰で労働者、国、雇用主組織のあいだでの三者間会議が催される。
1968年5月27日

政府、労働組合、および雇用主連合間の交渉が社会雇用省(Minister of Social Affairs and Employment)にて行われる。交渉の結果、最低賃金が3分の1上昇し、労働組合への公的権利が確立される「グルネル協定(Grenell agreements)」が締結された。一部強硬派は合意を不服とし、ストライキを続けた。ダニエル・コーン=ベンディットは秘密裏にフランスに戻る。
1968年5月29日

全国規模でデモがおき、パリに共産主義者80万人が集まり、「人民政府!」を連呼した。ド・ゴールは秘密会議を招集する。
1968年5月30日

ド・ゴール大統領はドイツから帰国し、フランス軍のジャック・マシュ将軍の支援を求めた。ド・ゴールはラジオ放送を行ない、辞任を拒否するが、国会を解散すると述べた。その夜、何十万人ものド・ゴールの支持者、いわゆる「サイレント・マジョリティ」がパリのシャンゼリゼ通りを行進した。
1968年6月

公共および民間労働者の大部分は仕事に戻ったが、余波としての散発的な暴力は続いた。警察、学生、労働者が別の事件で、3人が死亡した。

6月23日および30日の第1回、第2回の総選挙で、ド・ゴールに近い政党が大勝利を収めた。
1968年7月10日

ド・ゴール大統領はモーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィルを首相に任命した[15]
デモ参加学生の内部

1938年、フランスの大学生は6万人にすぎなかった。それが1961年に24万人、1968年時点には60万5,000人にまでふくれあがっていた[16]
新左翼と左翼の混在

実際に五月革命を主導していたのは、「反スターリニズム」的、「反ソヴィエト連邦」的な新左翼グループだった。デモはトロツキスト、マオイスト(毛沢東主義者)、アナーキスト、学生、労働者、市民、状況主義者(シチュアニスト)らと、フランス社会党フランス共産党など旧来の左翼の混合部隊だった。これらの性質の違う、さまざまなグループが雑多に集まり、運動を高揚させていったところに、この革命の特徴がある。
新左翼(反ソ連共産党)「赤毛のダニー」こと、ダニエル・コーン・ベンディット。五月革命というとフランス人が先導していたと思いがちだが、先導していたのはドイツ人移民だった。

ソ連と関係が深かった「スターリン主義」的なフランス共産党は、当初は影響下にある労働総同盟(CGT)を通じて労働者のストライキを組織した。だが、当時の共産党幹部ジョルジュ・マルシェは運動のリーダーであるダニエル・コーン=ベンディットら”ソ連を非難する急進的な学生運動”を「アナーキストのドイツ人」と否定、バリケードを構築しての衝突や街頭占拠をすすめる学生や労働者を「トロツキスト」と非難した。党や労働総同盟には学生主導のストライキを組織する力はなく、逆に学生や労働者のほうがより時代にあった根本的な要求をかかげていた。さらに五月革命には党や組合によって、組織されたものではない運動の自由で自発的な性質があり、「反=組合」「反=共産党」の幸福感があった。同じようにスターリン主義に幻滅していた、無神論的実存主義の哲学者ジャン・ポール・サルトルが学生運動家に接近した。
政権との総選挙と最低賃金引き上げ約束

政治生命の危機に直面したシャルル・ド・ゴール大統領は、国民議会を解散し、あくる6月に総選挙をすることを約束した。解散にさきだつ5月27日、政府は労働組合との賃上げ交渉に寛大にこたえるかたちで事態の鎮静化をはかった。その結果、学生と労働組合はよりよい条件の「グルネル協定」(すべての賃金の10%上乗せと最低賃金の35%引き上げ[17])を締結した
著名人の反応

ジャン・ポール・サルトル=戦後フランスを代表する哲学者。左翼だが、ソヴィエト政権に批判的だったサルトルは五月革命を熱烈に支持した。革命運動のリーダー、ベンディットとインタヴューもしている。サルトルはキューバにも訪れ、カストロやチェ・ゲバラを知っており、学生の革命に肯定的だった。

アンドレ・マルロー=保守派で反ファシズムの文学者。


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