五日市鉄道
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そのため浅野セメントは直営の石灰石採掘を決断し1920年(大正9年)に青梅鉄道より二俣尾の雷電山及び日向和田での採掘権を買収した。ところが主力採掘場としていた雷電山の石灰石の埋蔵量がさほどではないらしいことが判明したため[† 10]、やむなく代替の採掘場をさがすこととなった。そして大久野村の勝峰山の石灰石の埋蔵量が豊富であることを突き止めた。ただ勝峰山は青梅鉄道から離れており新たに輸送手段を確保する必要があった。そこで俎上に挙げられたのが計画中の五日市鉄道であった。そもそも勝峰山までの路線を計画したのは発起人たち自らで石灰石資源開発を目論んでおり[23]、発起人に浅野セメント関係者の名前はなかったが[24]、1922年(大正11年)12月の第一回株主総会で浅野泰治郎[25]が取締役に就任し泰治郎名義で1000株所有の大株主となった[16]

ところが資金不足で完成が危ぶまれていたにもかかわらず浅野セメントは小机らの再三の面会要請に応じなかった[26]。それは地元が石灰採掘権を手放すことに抵抗し土地を売らず、直営を目指す浅野セメントと対立していたためであった。そうしている間に秋川水力電気全資産を担保にするまで追い詰められてから、ようやく浅野セメントは援助をすることになった[27]。1924年(大正13年)1月に五日市鉄道と浅野セメントとの間で結ばれた契約は浅野セメントは総計3000余株を出資する。5万円を出資する。大久野駅、岩井駅から採掘場に至る引込み線の建設費用10万円を負担する。というものであったが、附帯条件として重役2名を送り込み、石灰山をふくむ大久野地区の土地買収の責任の一切を五日市鉄道が引き受けるという厳しい条件がつけられていた[26]。こうして浅野セメントは同年5月までに発行株式2万株中約5千株を取得、6月には金子喜代太(浅野セメント取締役)[28]と舟塚芳次郎[† 11]が取締役に就任した[23][29][† 12]。なおこの契約後の4月に小机が脳溢血のため死亡した[27]

ようやく資金の目処はつき、建設中止の危機は避けられたが、さまざまな困難が待ち受けていた。大久野村の土地買収では土地収用法の適用をうけることにしたが所有者が行政訴訟をおこしたため長い係争の末に五日市鉄道の主張は認められたが、武蔵岩井への開通は遅れることになった[30]。また雷電山及び日向和田での採掘権を売却した青梅鉄道は浅野セメントが勝峰山の石灰石採掘にシフトされると貨物輸送が減少するばかりでなく五日市鉄道が拝島から立川に延長する(後述)と勝峰山の石灰石輸送も得られなくなる可能性がでていた。そのため青梅鉄道は勝峰山の採掘予定地に隣接した未買収用地約4町2反を買収しそれを浅野セメントに転売する見返りに採掘した石灰石の輸送を青梅鉄道経由にするよう要求した。浅野セメントは要求を飲む代わりに割引運賃を求めることにし1925年(大正14年)7月に売買契約が成立したが将来も青梅鉄道に石灰石の輸送を担わせることの言及は避けた[31]

大株主の変遷1922年下期1923年上期1925年下期1927年上期1929年上期1933年上期1937年上期
内山安兵衛△8001,0001,0002,0001,0001,000
小机三造△8001,000
小机武△5001,000
岸右鉅△[† 13]800800
紅林七五郎△500
浅野泰治郎▲1,0003,24512,7352,000
金子喜代太▲1,0002,0002,0002,000
舟塚芳次郎▲1,0002,0001,000
浅野良三▲1,0002,0002,000
浅野総一郎▲2,0002,100
浅野セメント▲2,12510,86012,76025,420
総株数20,00020,00020,00040,00040,00040,00040,000
株主数246246271272272259257


△は西多摩郡在住▲は浅野セメント関係者

「五日市鉄道における大株主の変遷」『日本の地方民鉄と地域社会』115頁より西多摩郡在住者と浅野セメント関係者のみ抽出

開業五日市鉄道(武蔵岩井-拝島間)路線図
路線は桑畑の中を一直線に敷設され、秋川沿いにある集落からは離れていた

拝島停車場への連絡工事は用地買収に手間取り工事が遅れたため熊川寄り200mの雑木林の中に仮停車場を設置し1925年(大正14年)4月に拝島仮停車場 - 五日市間で旅客運輸営業を開始した[32][33]。5月になり拝島駅で青梅鉄道と接続し、9月に武蔵五日市駅 - 武蔵岩井駅間が開業した。1日6往復(7月から7往復)運転であった[19]。路線は秋留台地上を東西一直線に敷設され、多摩川支流の秋川沿いにある集落からは遠く周囲は桑畑で囲まれていた[34][† 14]

鉄道開通は地元に変化をもたらした。秋川谷は林業が盛んでかつては大量の材木を秋川、多摩川を筏で下り六郷で陸揚げしていたがそれがなくなった[35]。教育面ではそれまで金持ちの子息は東京市内や近郊に家を借りてそこから学校にかよわせ一般の人たちは高等小学校どまりだったのが鉄道開通後は府立二中(現在の東京都立立川高等学校)に通えるようになった[36]。工事の際に多数の土器が発見されたが、その後の考古学研究につながっていった[19]。また西秋留村牛沼の篤志家が私費で吉野桜を買い入れ東秋留から岩井の各駅に植え付け昭和20年代には盛大に咲き開いたという[19]。もっとも普段は乗客が少なく客車定員42人をもじってしじゅう2人といわれたが[37]、正月の拝島大師のときは参拝客を無蓋車に載せて多摩川の鉄橋を渡る時は冷たい風と溢れるような人混みの中しがみつきあったという[38]

勝峰山の開鉱着手は1926年(大正15年)2月からされ、浅野セメント川崎工場への石灰石輸送は1927年(昭和2年)3月より開始された[39]。五日市鉄道→青梅鉄道→中央本線→山手線→東海道線と経由して浜川崎駅で専用線を使い工場へ運ばれた[40]。営業成績は不況の影響により芳しくなく政府補助金を受けながら毎期赤字を計上していた[41]。その赤字の補填は内山、小机武、池谷精一の山持ち重役らの個人補償で補われていた[42]。また1926年(大正15年)3月に岸忠左衛門が脳溢血で倒れ辞職した[36]
立川延長と南武鉄道連絡
立川延長出願

五日市鉄道は岩井-拝島間の免許状が下付された1年後の1922年(大正11年)11月に一旦は取り下げた拝島駅-立川駅間の延長敷設願いを提出した。それによると拝島駅で接続する青梅鉄道は現時点で輸送力が膨満状態であり、沿線の石灰山より採掘した石灰石、搬出した川砂利の輸送は日々増加している。五日市鉄道で輸送する勝峰山の石灰石や多摩川の砂利輸送を青梅鉄道に担わせることは不可能であり拝島駅-立川駅間に独自の路線が必要であると主張し[43]、「当線カ立川ニ於イテ直接省線ニ連絡スルハ秋川ノ水源地方ヨリ五日市ヲ通過シテ多摩川ニ達スル沿線地方ノ人民カ非常ニ熱望シ居ルハ勿論ニシテ拝島ヨリ立川ニ至ル沿道ノ住民モ亦非常ニ渇望シ居ル所ナリ」としてそれは明治時代の青梅鉄道建設に際し「鉄道ハ煤煙ノ為メ地方産業ニ有害ナリトノ迷執ニ捕ラワレ、線路ヲバ特ニ人家稠密ノ区域ヨリ遥カ後方ヘ駆逐去リシガ、今日ニ及ンデハ停車場ヘ達スルノ道遠クシテ不便極マリナキ為メ大イニ後悔シ[† 15]」として沿線住民は五日市鉄道が人家沿道を通ることを希望しているとしている[44][† 16]

しかし出願で述べている青梅鉄道の輸送力が問題ならば青梅鉄道の株主でもある浅野セメントが増資を負担し複線化[† 17]すれば解決できる話で、そのほうが建設費も抑えられる。あえて新線を敷設するのは浅野セメントが青梅鉄道の石灰石輸送に不満を持っていたとみられる[16]

さらに1923年(大正12年)12月に五日市鉄道と南武鉄道は立川駅で接続連絡したい旨の許可申請書を提出している。これは浅野泰治郎が筆頭株主である南武鉄道と接続できれば勝峰山から採掘した石灰石を川崎工場まで省線を使わずに一貫輸送できるからである[43]。1924年(大正13年)2月に五日市、南武両鉄道の鉄道免許状は同日に下付された[45][† 18]
開業五日市鉄道(拝島-立川間)路線図、1935年
当初は拝島駅接続ではなく多摩川沿いの貨物線と接続し中央本線に乗り入れ立川駅へ行く計画であった

1929年(昭和4年)9月に工事に着手し、困難な工事もなく1930年(昭和5年)7月に拝島駅-立川駅間が開業した[44]。この区間は各集落ごとに駅を設けており駅間距離が短かった[46]。立川駅へは西側で中央本線を乗り越して南側にある南武鉄道線と直結する配線をとった[47]そして同じホームの南側を南武鉄道が、北側を五日市鉄道が使用した[44]


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