五島昇
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ごとう のぼる
五島 昇
生誕 (1916-08-21)
1916年8月21日
東京府東京市神田区駿河台
(現・東京都千代田区神田駿河台
死没 (1989-03-20) 1989年3月20日(72歳没)
墓地世田谷区九品仏浄真寺
国籍 日本
出身校東京帝国大学経済学部
職業実業家
子供五島哲(長男)
五島慶太
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五島 昇(ごとう のぼる、1916年大正5年)8月21日 - 1989年平成元年)3月20日)は、日本実業家東京急行電鉄社長会長日本商工会議所会頭[1]五島慶太の長男。
人物・来歴

東京府東京市神田区駿河台(現・東京都千代田区神田駿河台)に、五島慶太、万千代(旧姓久米)の長男として生まれる[1]学習院初等科中等科 (旧制)高等科 (旧制) を経て東京帝国大学経済学部を卒業。学生時代は野球部に籍を置き捕手としてならしたが、中途退部の後ゴルフ部へ転向。ゴルフがきっかけで知り合いになった東京芝浦電気副社長・津守豊治の紹介で同社に入社した[2]。昇には父の跡を継ぐ気がなかった[2]

慶太には昇と進という二人の息子がいた。兄の昇は常日頃から父に反抗し「絶対に(父の)を跡を継がない」と放言していた。これに対して、弟の進は父と瓜二つで、慶太も進に期待していたようだった[2]。ところが、海軍に入隊していた進は、1943年(昭和18年)にソロモン諸島で戦死してしまう[2]。弟の死を告げにいった昇は、父が打ちひしがれる姿を見て、父への反抗をやめ、跡を継ぐことを決意したという[2]

戦時中は、陸軍大尉として軍務に就く。復員後の1945年(昭和20年)東京急行電鉄に入社[2]川崎市元住吉にある車輌工場を経て、1948年に新発足した東急横浜製作所(現・総合車両製作所)常務[2]京浜急行電鉄取締役となる。父の病気をきっかけに、1952年に東京急行電鉄本社に戻され、取締役になり、翌1953年に副社長、そして1954年、38歳の若さで社長に就任し[3]、死去するまで、東急グループ各社の会長もしくは相談役を担い、京王帝都電鉄(現・京王電鉄)や小田急電鉄の取締役、松竹歌舞伎座の取締役相談役なども務めた[1]

白木屋買収が一区切り付いた頃、慶太が横井英樹らと東洋精糖の乗っ取りを画策していることが表面化した[4]。しかし、その決着を見ぬまま、慶太は亡くなる。マスコミは「副社長・大川博が全部やる(=経営する)なら大丈夫。昇が全部やるならこれで東急は駄目」と若き経営者を酷評したが、昇はしたたかなうえに、強気だった[4]、慶太の死後、1ヶ月も経たぬうちに昇は東洋精糖の乗っ取りから撤退し、黒い人脈と手を切った[4]。東洋精糖の株式は、当初、プレミアを付けて引き取らせる予定だった。しかし、購入価格を割って損をしながら解決を図ったことで財界や世間からの声望は高まった。同年11月の定例取締役会で、経団連会長・石坂泰三日本開発銀行初代総裁・小林中産経新聞社長・水野成夫を相談役に迎える人事を発表した[4]。とかく不安が伝えられる社内外の動揺を抑えるために、昇の「強力な後ろ盾」となる財界の大物を擁したのである[4]

グループ経営の方向性に合わせ、航空事業(日本国内航空→東亜国内航空(後の日本エアシステム、現・日本航空))やホテル事業、リゾート開発等の拡大を図り、最盛期にはグループ会社400社、8万人の従業員を数えた[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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