五島慶太
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追放解除は、1950年の第一次解除では申請が認められず[11]、1951年にずれ込んだ。追放中も影のご意見番として事実上企業活動に参加。大東急分割の際も、むしろ自ら企業分割の推進役を果たした。既にこの頃「城西南地区開発」の発想があり、旧3社への事業譲渡代金は城西南地区開発を始める恰好の元金であった。

追放解除後は東京急行電鉄会長に再び就任し、まずは各系列会社の運営実態を確認。倒産寸前にまで陥っていた東映は、借金が11億円(2006年の貨幣価値換算で数百億円)[12][13]にも膨らんでいたが[12][13]住友銀行鈴木剛頭取と交渉して融資を引き出した[12][13]。東映再建に、東急専務で「経理の専門家」として五島が多大な信頼を寄せていた大川博を社長として派遣し、見事に3年で立ち直らせた。これが失敗していたら五島家は破産していたといわれる[12]1953年(昭和28年)に城西南地区開発を発表して神奈川県北東部を中心とした地域の多摩田園都市開発に着手する。

その一方で、1955年(昭和30年)に横井英樹白木屋乗っ取りに手を貸し、これに東横百貨店を吸収、「強盗慶太」の健在ぶりを知らしめる。定山渓鉄道など北海道各地の乗合バス会社を次々と買収し、北海道開発を推進した。伊豆の観光開発にも力を注ぎ、伊東 - 下田間の鉄道敷設(現・伊豆急行線)を計画し「伊豆戦争」を繰り広げる傍ら、箱根の観光事業ではかつて傘下に収めていた小田急側について「箱根山戦争」を繰り広げ、五島の郷里である長野県でも軽井沢の開発を巡って草軽電気鉄道[注釈 3]を東急傘下に収めて経営を行い、西武鉄道堤康次郎と各地で激しく対立した。詳細は「箱根山戦争#経緯」および「伊豆戦争#経緯」を参照

五島は郷里・長野県の開発にも関心を持っており、上田丸子電鉄(現・上田交通)に出資し、同社はのちに東急の系列会社となったものの、既に病に侵されておりそれ以上の関与はできなかった。死の直前の1959年(昭和34年)に再び横井と組み東洋精糖買収に乗り出し、熾烈な攻防戦を繰り広げる。しかし、その最中に五島は病没。東洋精糖株は死後27日目に手放された。墓所は世田谷区浄真寺。
人物像
死後の評価

強引な企業買収で知られているものの、東映の再建、箱根・伊豆・信州・北海道の開発、洗足田園都市や田園調布を発端にした多摩田園都市の開発など、その壮大な事業構想は、企業家として高い評価を受けている。師である小林一三からは私鉄経営について多くを学び、ターミナルであった渋谷駅にデパートを設置したことや田園都市を開発したのは、小林の手法の模倣とされている。しかし小林よりも大規模に行った「学校の誘致」のように、独自の発想によるものもいくつかあった。さらに小林が官僚の天下りを嫌ったのに対し、五島はその政治力を積極的に利用して事業を推し進めようとするなど、官僚出身者であるが故といった面も見られることがあった。その反面、小林が多用した「"隠密"を使っての事業拡大」の手法は採らなかった。

小林やライバルとして知られる西武鉄道の堤康次郎同様、美術品のコレクターとして知られる。蒐集品の公開のため、死の翌年に五島美術館が創立された。

東急グループである東京都市大学では、五島について学ぶ授業が存在する。

出身地の長野県では、郷土出身の偉人としてたたえられている。生前に生まれ故郷である青木村殿戸地区の公民館建設へ寄付を行うなどしており、館内に胸像が建てられている。没後、長男の五島昇が「五島慶太翁記念公園」を建設したほか、2020年に「五島慶太未来創造館」が開館している。殿戸峠の入口に生家が現存していたが、2018年8月に落雷により焼失[注釈 4]。鉄道院に官吏として勤務した頃は、北信地方の交通網整備のため飯山鉄道の敷設認可に尽力し、のちに運輸通信大臣として同社を国有化して国鉄飯山線とした。この功績を記念した石碑が飯山駅前に建てられている。
家族・親族

日本経済新聞に連載された『私の履歴書』によれば、「私の家は貧しい農家とはいっても、千戸余りしかない山中の一寒村では、村一番の資産家だった」。父・菊右衛門は熱心な法華経の信者で、起床時、就寝前、南無妙法蓮華経を少なくとも五百遍から千遍ほども唱えていた[15]。両親の姿勢を受けた慶太も仏教に感化を受けた。兄・虎之助は家業を継ぎ、のちに青木村村長長野県議会議員を務めるなど地元の名士として活動した。

鉄道院転属の前年の1912年(明治45年)2月24日、慶太が30歳の時、工学博士古市公威の仲人で、皇居二重橋の設計者である工学博士・久米民之助の長女・万千代と見合い結婚をした。この時、久米民之助の祖母の実家で旧沼田藩士の五島家を再興[16]。慶太は万千代と結婚した後に五島姓を名乗ることになった。万千代は1922年(大正11年)、スペインかぜが原因で31歳で急逝したが、五島は生涯再婚も復姓もしなかった。

万千代との間に2男2女を儲けた。長男の昇は東京急行電鉄社長、日本商工会議所会頭などを歴任する。長女の春子は曾禰益に嫁ぐ。次女の光子は早世した。次男の進は東京帝大を卒業後、帝国海軍に入隊し、ソロモン諸島で敵機の機銃掃射により乗船していた船と運命を共にし戦死する。
年譜

1882年明治15年)- 長野県小県郡青木村に生まれる。

1906年(明治39年)- 東京高等師範学校卒業後、四日市商業学校に赴任。

1911年(明治44年)- 東京帝国大学法学部を卒業し、農商務省に入省。

1913年大正2年)- 鉄道院に転属。

1920年(大正9年)- 武蔵電気鉄道常務に就任。

1922年(大正11年)- 目黒蒲田電鉄専務に就任。

1924年(大正13年)- 武蔵電気鉄道、社名を(旧)東京横浜電鉄と変更。

1934年昭和9年)- 東京高速鉄道常務に就任。

1936年(昭和11年)- (旧)東京横浜電鉄、目黒蒲田電鉄取締役社長に就任。

1939年(昭和14年)- 目黒蒲田電鉄が(旧)東京横浜電鉄を合併し、名称を逆に(新)東京横浜電鉄とする。

1942年(昭和17年)- 京浜電気鉄道および、小田急電鉄を合併し、(旧)東京急行電鉄商号変更。

1942年(昭和17年)8月31日- 東京宝塚劇場取締役に就任。

1943年(昭和18年)- 内閣顧問に就任。

1943年(昭和18年)12月10日- 東宝取締役に就任。

1944年(昭和19年)- 運輸通信大臣就任に伴い、東京急行電鉄社長を辞任。

1947年(昭和22年)- 公職追放

1951年(昭和26年)- 公職追放解除。

1952年(昭和27年)- 東京急行電鉄取締役会長に就任。

1955年(昭和30年)- 学校法人五島育英会を設立し、初代理事長に就任。

1959年(昭和34年)- 死去。77歳没。

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 上條昌克所有の新町の長屋に下宿した。


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