五島慶太
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三井銀行出身で慶應閥に顔が利く小林一三に助力を依頼したが、「渋谷のような片田舎[注釈 2]の百貨店がそんなことをするのは、を飲み込むより至難」と諭されて断念した。

1934年、五島は渋谷 - 新橋間に地下鉄を敷設するため、大倉組東京地下鉄道と協力して東京高速鉄道を発足させ、常務に就任した。1938年に渋谷 - 虎ノ門間を開通するが、社長門野重九郎東京駅への延伸を主張するのに対し、五島は新橋から東京地下鉄道へ乗り入れ、当時、東京一の繁華街であった上野と浅草に至るルートを主張し、2人は対立した。1939年に五島は大日本電力社長の穴水熊雄から東京地下鉄道株式45万株を譲り受け、東京地下鉄道社長の早川徳次を退陣に追い込んだ。

1941年(昭和16年)に陸上交通事業調整法に基づく帝都高速度交通営団(営団地下鉄)が成立した。鉄道省総務課長の佐藤栄作は、「私鉄二社の無駄な競争をやめさせ、営団に一本化すべき」と主張した。これまで五島が競合相手を合併する際に用いた口実が使われたことになる。両社の株式は営団債に振り替えられたが、戦後にインフレーションで紙屑同然と化した株券の山を見た五島は人知れず号泣した。

1942年(昭和17年)に陸上交通事業調整法の趣旨に基づき、既に五島の経営下にあった京浜電気鉄道小田急電鉄を合併して東京急行電鉄を発足し、1944年に京王電気軌道を合併する。相模鉄道など東京西南部全域の私鉄網を傘下に収めて「大東急」となった。詳細は「大東急#成立と崩壊の経緯」を参照
東條内閣に入閣、公職追放五島慶太

1943年(昭和18年)、国策によって静岡鉄道が成立し、五島は初代会長に就任。静岡鉄道が東急と繋がりが今も深いのはそのためである。内閣顧問に任ぜられ、木造船の行政査察使として青森から関西造船所を回った。巡回の後、箱根強羅ホテルでレポートを仕上げているところに次男の戦死を耳にした。1944年(昭和19年)2月11日、東條英機内閣運輸通信大臣に就任し、名古屋駅の交通緩和や船員の待遇改善などに貢献する。詳細は「運輸通信省 (日本)#歴代の運輸通信大臣等」を参照

大東急の沿線都市の川崎市は、国鉄川崎駅と臨海部を結ぶ川崎鶴見臨港バスの輸送力低下に業を煮やし、路面電車参入を決めていた。東急も京浜電気鉄道から引き継いだ大師線を延長し、臨海部の軍需工場へ通勤輸送に当たる予定だった。川崎市では当初、東急から大師線を買収して市営に一本化、環状運転を行う構想を持っていたが五島は市側と調整し、桜本駅から北を東急、以南を川崎市の運営とすることで折り合わせる。1945年(昭和20年)に川崎市電と大師線が桜本駅で連絡した。詳細は「川崎市電#沿革」および「海岸電気軌道#京急大師線と川崎市電の臨海部延長」を参照

終戦後の1947年(昭和22年)、東條内閣の閣僚だったために連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) によって公職追放者指定を受けた。追放解除は、1950年の第一次解除では申請が認められず[11]、1951年にずれ込んだ。追放中も影のご意見番として事実上企業活動に参加。大東急分割の際も、むしろ自ら企業分割の推進役を果たした。既にこの頃「城西南地区開発」の発想があり、旧3社への事業譲渡代金は城西南地区開発を始める恰好の元金であった。

追放解除後は東京急行電鉄会長に再び就任し、まずは各系列会社の運営実態を確認。倒産寸前にまで陥っていた東映は、借金が11億円(2006年の貨幣価値換算で数百億円)[12][13]にも膨らんでいたが[12][13]住友銀行鈴木剛頭取と交渉して融資を引き出した[12][13]。東映再建に、東急専務で「経理の専門家」として五島が多大な信頼を寄せていた大川博を社長として派遣し、見事に3年で立ち直らせた。これが失敗していたら五島家は破産していたといわれる[12]1953年(昭和28年)に城西南地区開発を発表して神奈川県北東部を中心とした地域の多摩田園都市開発に着手する。

その一方で、1955年(昭和30年)に横井英樹白木屋乗っ取りに手を貸し、これに東横百貨店を吸収、「強盗慶太」の健在ぶりを知らしめる。定山渓鉄道など北海道各地の乗合バス会社を次々と買収し、北海道開発を推進した。伊豆の観光開発にも力を注ぎ、伊東 - 下田間の鉄道敷設(現・伊豆急行線)を計画し「伊豆戦争」を繰り広げる傍ら、箱根の観光事業ではかつて傘下に収めていた小田急側について「箱根山戦争」を繰り広げ、五島の郷里である長野県でも軽井沢の開発を巡って草軽電気鉄道[注釈 3]を東急傘下に収めて経営を行い、西武鉄道堤康次郎と各地で激しく対立した。詳細は「箱根山戦争#経緯」および「伊豆戦争#経緯」を参照

五島は郷里・長野県の開発にも関心を持っており、上田丸子電鉄(現・上田交通)に出資し、同社はのちに東急の系列会社となったものの、既に病に侵されておりそれ以上の関与はできなかった。死の直前の1959年(昭和34年)に再び横井と組み東洋精糖買収に乗り出し、熾烈な攻防戦を繰り広げる。しかし、その最中に五島は病没。東洋精糖株は死後27日目に手放された。墓所は世田谷区浄真寺。
人物像
死後の評価

強引な企業買収で知られているものの、東映の再建、箱根・伊豆・信州・北海道の開発、洗足田園都市や田園調布を発端にした多摩田園都市の開発など、その壮大な事業構想は、企業家として高い評価を受けている。師である小林一三からは私鉄経営について多くを学び、ターミナルであった渋谷駅にデパートを設置したことや田園都市を開発したのは、小林の手法の模倣とされている。しかし小林よりも大規模に行った「学校の誘致」のように、独自の発想によるものもいくつかあった。さらに小林が官僚の天下りを嫌ったのに対し、五島はその政治力を積極的に利用して事業を推し進めようとするなど、官僚出身者であるが故といった面も見られることがあった。その反面、小林が多用した「"隠密"を使っての事業拡大」の手法は採らなかった。

小林やライバルとして知られる西武鉄道の堤康次郎同様、美術品のコレクターとして知られる。蒐集品の公開のため、死の翌年に五島美術館が創立された。

東急グループである東京都市大学では、五島について学ぶ授業が存在する。

出身地の長野県では、郷土出身の偉人としてたたえられている。生前に生まれ故郷である青木村殿戸地区の公民館建設へ寄付を行うなどしており、館内に胸像が建てられている。没後、長男の五島昇が「五島慶太翁記念公園」を建設したほか、2020年に「五島慶太未来創造館」が開館している。殿戸峠の入口に生家が現存していたが、2018年8月に落雷により焼失[注釈 4]。鉄道院に官吏として勤務した頃は、北信地方の交通網整備のため飯山鉄道の敷設認可に尽力し、のちに運輸通信大臣として同社を国有化して国鉄飯山線とした。この功績を記念した石碑が飯山駅前に建てられている。
家族・親族

日本経済新聞に連載された『私の履歴書』によれば、「私の家は貧しい農家とはいっても、千戸余りしかない山中の一寒村では、村一番の資産家だった」。父・菊右衛門は熱心な法華経の信者で、起床時、就寝前、南無妙法蓮華経を少なくとも五百遍から千遍ほども唱えていた[15]。両親の姿勢を受けた慶太も仏教に感化を受けた。兄・虎之助は家業を継ぎ、のちに青木村村長長野県議会議員を務めるなど地元の名士として活動した。


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