五島慶太
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目黒蒲田電鉄を立ち上げる時に小林が多忙のため、代わりに鉄道院出身であった五島を推挙した。小林からは「荏原電鉄を先にやって、45万坪の土地を売り、その利益で武蔵電鉄をやればいい」と説得され、1922年(大正11年)10月から荏原電気鉄道の専務を兼務した。直前の1922年(大正11年)7月、荏原電気鉄道は目黒蒲田電鉄と名前を変え、1924年(大正13年)11月に目蒲線の全線開通を迎えた。その時期が関東大震災と重なったため、都心を焼け出された人々が沿線に移住し業績は一気に好転した。その利益で武蔵電鉄の株式過半数を買収し、名前を武蔵電鉄から(旧)東京横浜電鉄と変え、1927年(昭和2年)8月に東横線を渋谷駅 - 神奈川駅間で開通させた。この東横線は五島が最も精魂を傾けて建設した路線[9]である。

昭和恐慌の煽りを受けて業績は悪化する。その時、五島は「予算即決算主義」を確立した。これは後々まで五島の経営哲学として生き続ける。

五島は阪急の小林の手法に倣い、沿線に娯楽施設やデパートを作り東横沿線の付加価値を高めた。更に大学等の学校を誘致し始める。1924年(大正13年)、関東大震災で被災した東京工業大学浅草区蔵前から目蒲電鉄沿線の大岡山へ移転させることに成功する。1929年(昭和4年)に慶應義塾大学日吉台の土地を無償提供し、1934年(昭和9年)日吉キャンパスが開設された。1931年(昭和6年)に日本医科大学武蔵小杉駅近くの土地を無償で提供し、1932年(昭和7年)に東京府立高等学校八雲に誘致した。1936年(昭和11年)に赤坂区青山北町にあった東京府青山師範学校に資金援助を行い、世田谷の下馬に誘致した。東横沿線を学園都市として位置付け数々の誘致を成功させ、通学客を安定的な乗客として多く獲得した。

五島は自らが苦学生であったことに加え、学生時代から家庭教師や学校の教師を務めていたことから教育分野に大変熱心だった。そのため私財を投じて東横商業女学校(後の東横学園中学校・高等学校・女子短期大学)を設立。続けて武蔵高等工科学校を有する学校法人五島育英会を設立するなど、晩年まで意欲を持ち続けた。

事業を拡大して1933年(昭和8年)7月に競合する池上電気鉄道の株を東京川崎財閥から譲り受けて買収した。

1934年(昭和9年)11月、渋谷駅前に関東初の電鉄系ターミナルデパートである東横百貨店を開業した。呉服が中心だった百貨店事業の中で、東横百貨店は日用品中心の品揃えを展開する。ターミナルであった渋谷駅は当時でも30万人近い乗降客があり、都心に行かず買い物ができる東横百貨店は人気を呼んだ。東横百貨店の隣に本社ビルを所有し、渋谷の開発をめぐり競合関係にあった玉川電気鉄道を内国貯金銀行の前山久吉から株式譲渡で買収、1936年(昭和11年)に社長に就任。1938年(昭和13年)4月に(旧)東京横浜電鉄に吸収合併した。1939年(昭和14年)10月に目黒蒲田電鉄は(旧)東京横浜電鉄を合併し、名称を逆に(新)東京横浜電鉄とする。五島慶太は「東横線が我々の祖業である、この線が滞りなく走っていれば東急の事業は安泰だ」と語ったように(旧)東京横浜電鉄は(新)東京横浜電鉄における事実上の主力であった。[9]

五島は関西でも鉄道事業に関与し、1927年(昭和2年)から1944年(昭和19年)にかけて、近畿日本鉄道(近鉄)の前身である大阪電気軌道(大軌)[10]の監査役および、大軌子会社である参宮急行電鉄(参急)の取締役も務めた。
事業戦略

1938年に前山久吉が所有する三越株式の譲渡が持ち上がった。五島は東横百貨店を三越と合併して東横を三越の渋谷支店にしようと考え、10万株を購入した。東横百貨店の従業員研修の際に研修先候補に挙がっていた三越から受け入れを断られたことの逆恨みであったと伝わる。三井財閥の祖業である三越の乗っ取りを阻止するため、三井銀行は東横の融資を停止する。三井の要請を受けた三菱銀行頭取の加藤武男も、慶應閥牙城の三越の買収に手を貸せば非難が向くと判断して融資を停止した。五島は大財閥の三井と三菱を相手にする状況となり、資金繰りが悪化する。三井銀行出身で慶應閥に顔が利く小林一三に助力を依頼したが、「渋谷のような片田舎[注釈 2]の百貨店がそんなことをするのは、を飲み込むより至難」と諭されて断念した。

1934年、五島は渋谷 - 新橋間に地下鉄を敷設するため、大倉組東京地下鉄道と協力して東京高速鉄道を発足させ、常務に就任した。1938年に渋谷 - 虎ノ門間を開通するが、社長門野重九郎東京駅への延伸を主張するのに対し、五島は新橋から東京地下鉄道へ乗り入れ、当時、東京一の繁華街であった上野と浅草に至るルートを主張し、2人は対立した。1939年に五島は大日本電力社長の穴水熊雄から東京地下鉄道株式45万株を譲り受け、東京地下鉄道社長の早川徳次を退陣に追い込んだ。

1941年(昭和16年)に陸上交通事業調整法に基づく帝都高速度交通営団(営団地下鉄)が成立した。鉄道省総務課長の佐藤栄作は、「私鉄二社の無駄な競争をやめさせ、営団に一本化すべき」と主張した。これまで五島が競合相手を合併する際に用いた口実が使われたことになる。両社の株式は営団債に振り替えられたが、戦後にインフレーションで紙屑同然と化した株券の山を見た五島は人知れず号泣した。

1942年(昭和17年)に陸上交通事業調整法の趣旨に基づき、既に五島の経営下にあった京浜電気鉄道小田急電鉄を合併して東京急行電鉄を発足し、1944年に京王電気軌道を合併する。相模鉄道など東京西南部全域の私鉄網を傘下に収めて「大東急」となった。詳細は「大東急#成立と崩壊の経緯」を参照
東條内閣に入閣、公職追放五島慶太

1943年(昭和18年)、国策によって静岡鉄道が成立し、五島は初代会長に就任。静岡鉄道が東急と繋がりが今も深いのはそのためである。内閣顧問に任ぜられ、木造船の行政査察使として青森から関西造船所を回った。巡回の後、箱根強羅ホテルでレポートを仕上げているところに次男の戦死を耳にした。1944年(昭和19年)2月11日、東條英機内閣運輸通信大臣に就任し、名古屋駅の交通緩和や船員の待遇改善などに貢献する。詳細は「運輸通信省 (日本)#歴代の運輸通信大臣等」を参照

大東急の沿線都市の川崎市は、国鉄川崎駅と臨海部を結ぶ川崎鶴見臨港バスの輸送力低下に業を煮やし、路面電車参入を決めていた。東急も京浜電気鉄道から引き継いだ大師線を延長し、臨海部の軍需工場へ通勤輸送に当たる予定だった。川崎市では当初、東急から大師線を買収して市営に一本化、環状運転を行う構想を持っていたが五島は市側と調整し、桜本駅から北を東急、以南を川崎市の運営とすることで折り合わせる。1945年(昭和20年)に川崎市電と大師線が桜本駅で連絡した。詳細は「川崎市電#沿革」および「海岸電気軌道#京急大師線と川崎市電の臨海部延長」を参照

終戦後の1947年(昭和22年)、東條内閣の閣僚だったために連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) によって公職追放者指定を受けた。追放解除は、1950年の第一次解除では申請が認められず[11]、1951年にずれ込んだ。追放中も影のご意見番として事実上企業活動に参加。大東急分割の際も、むしろ自ら企業分割の推進役を果たした。既にこの頃「城西南地区開発」の発想があり、旧3社への事業譲渡代金は城西南地区開発を始める恰好の元金であった。

追放解除後は東京急行電鉄会長に再び就任し、まずは各系列会社の運営実態を確認。倒産寸前にまで陥っていた東映は、借金が11億円(2006年の貨幣価値換算で数百億円)[12][13]にも膨らんでいたが[12][13]住友銀行鈴木剛頭取と交渉して融資を引き出した[12][13]


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