五島列島に人が住み着いたのは早く、一部には旧石器時代に既に人が住みついていたという。島では旧石器時代以降、縄文時代や弥生時代の遺跡が非常に多く発見されている。
日本人の先祖の大部分がどこから来たのかについては多くの説があるが、五島列島は最近でも中国やベトナムからの難民を乗せた船が何度も流れ着き、また台風の時は中国漁船の避難場所にもなっており、中国大陸南部から海流にまかせて流されれば五島に着く可能性も充分にある。
『肥前国風土記』にも、五島の海士は「容貌、隼人に似て、常に騎射を好み、その言語は俗人に異なれり」と記されている。
五島では島々が密集していながら地続きではなく、全体としてはかなり大きいといえる。五島列島のどこにいてもたいてい海が見える。
このような自然環境は漁労民には大きな利点であった。遺跡などから考えると、縄文時代の生活は同じ時代の本土と変わらないものであったが、その後、弥生時代になると本土発祥の生活様式などがやや遅れて五島に伝わってくるようになったと思われる。
ただし、時代が下っても平安時代には後期遣唐使が最後の寄港地とするなど、本土から距離があるとはいえ大陸に近いということもあり、中央の文化と長く隔絶された状況ではなかった。
『古事記』の国産みにおいて、イザナギ・イザナミが大八州を生んだ後、更に「児島」「小豆島」「大島」「女島」「知訶島(ちかのしま)」「両児島(ふたごのしま)」を生むが、この中の知訶島が五島列島である。古くは福江島を「おおぢか(大知訶、大値嘉)」と呼び、上五島の島を「こぢか」と呼んでおり、現在行政区画上ではたまたま五島列島に入れられていないものの五島列島の一部としてその北に位置する小値賀島(おぢかじま)がその呼称の名残とされる。
『日本書紀』天武天皇4年夏4月18日(675年5月17日)の条に「三位麻続王に罪があって因幡に流罪とした際、その子らを伊豆大島とともに「血鹿嶋」に流した」とある。
「両児島(ふたごのしま)」についても、五島の南西に離れて浮かぶ男女群島のことであるとするのが通説である。
五島列島に比してかなり小さい男女群島は現在の行政区画では五島市 に入るが、この島も女島灯台が設置されるなど近年に至るまで重要な島であった。これらのことからも、古代において五島列島や周辺の島々が中央にもよく知られていたことが分かる。 その後、中世に至るまで五島列島の政治勢力に大きな変化はみられなかったが、鎌倉時代以降は松浦水軍の松浦党に属した宇久氏が勢力を伸ばし、宇久島から五島列島のほぼ全域を支配下に収める。 宇久氏は14世紀後半に宇久島から拠点を五島列島の南端で最大の島である福江島に移し、玉之浦納の反乱による衰退などを経ながらも、松浦党の中心勢力を統合した近接する平戸島の平戸松浦氏とも良好な関係を維持しつつ戦国大名となった。 また、戦国時代には倭寇(後期倭寇)頭目で貿易商人の王直が宇久氏の協力の下で活動の一拠点としている。
景行天皇御代 『肥前国風土記』に、九州巡幸の時、従者に命じて五島内を視察させ、海・陸の産物,住民のこと等詳しく報告を受けたと記す。
704年 第7次遣唐使船(粟田真人・山上憶良)帰朝の際に玉之浦へ漂着。
740年(天平12年)に大宰少弐藤原広嗣が反乱を起こしたが敗れ、肥前国松浦郡の値嘉嶋長野村(ちかのしまながのむら、現在の宇久島)で逮捕され、断首されている。
804年 第16次遣唐使船4隻、久賀島田之浦に寄泊して渡唐、最澄、空海ら随行。
842年(承和9年) 唐の商人李処人が博多から唐へ向かう途中、値嘉嶋奈留浦(奈留島)に寄港し、老朽化した船を廃棄し、島の楠を切り出して3ヶ月で新船を完成させ、6日間で唐へと渡っている[11] 。
876年(貞観18年)には、それぞれ値嘉郷・庇羅郷(ひらごう)とも呼ばれていた五島列島と平戸島地域を併せて値嘉島という行政区画とし、島司が置かれた。
中世以降から五島藩の成立まで
1187年 松浦一族より宇久推定、宇久島にて宇久氏を名乗る。
1281年 5代目領主宇久競、元寇の役に出陣、軍功をあげる。
1351年(観応2年) 小値賀島と浦部島の一部を平戸領(松浦藩)とし、浦部島の大半を青方領(五島藩)とすることで和解した。
1381年(弘和3年) 8代目領主宇久覚が、宇久島から五島列島最大の島である福江島に居を移した[11]。
1413年(応永20年) 五島各地に拠点を構えていた豪族により五箇条の規約を設けた「宇久浦中契約」が成立し、9代目領主の宇久勝が五島の党首に推され五島統一がなった[11] 。
1540年(天文9年) 明の商人の王直が通商を求めて五島に来航し、領主の宇久盛定は、通商を許可して城下に居住地を与えた[11] 。