五山送り火
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固定された火床もなく、かつては荒縄を張るなどして形を決めていたため、毎年形が変わっていたと言う。2011年現在は栗石とコンクリートで作られた53の火床が使用されている[13][14]。また、大文字は一斉点火であるが、左大文字は筆順に沿って点火される[13]

1960年(昭和35年)に、火床を「大」の字各方面に2床ずつ、合計10床増加させた[13]。8月の上旬には、保存会の手により、法音寺に高燈籠が掲げられる[15]
鳥居形松明

所在地:京都市右京区嵯峨鳥居本一華表町(さが とりいもと いっかひょうちょう)

山名:曼荼羅山(まんだらやま)。あるいは仙翁寺山(せんおうじやま)・万灯籠山。

火床:108か所

大きさ:縦76m、横72m

保存会:他山と違い唯一、寺の檀家の世襲ではなく有志による。

鳥居形松明の送り火では特にの中でも松脂(まつやに)を多く含んだ「ジン」と呼ばれる部分を使う[16]。そのため火の色が他山とは少し違いオレンジに近い色になっている。火床も、他山と違い、薪を井桁に組むのではなく、松明をそのまま点火台に立てる方式をとっている[16]。親火床から松明を持って各火床に走るので「火が走る」とも称される。
実施

五山送り火は基本的には保存会に属する地域住民が実施しており、保安面では消防警察行政による支援を受けている[16]。なお「妙法」以外では護摩木を販売している[16]

大文字の点火直前の流れは、まず19時頃からすべての字画の交差する場所(金尾という)の前にある弘法大師堂で法要が始まる。各火床担当の保存会員が集まった中、浄土院の住職が読経を延々と続ける。19時55分に金尾の火床(最も多くの木が積み上げられている)に弘法大師堂の灯明から採った火が移され点火される。そのため公式点火時間の5分前には1点だけの点火が麓から見られる。20時に近づくと、保存会長は長い棒の先の松明に金尾から採火して点灯し高く掲げて、ハンドマイクなどを使って「一文字(用意は)ええか」「字頭ええか」「北の流れええか」「南の流れええか」などと確認をし、そのたびに各持ち場から「ええで」・「よし」などの返事が返る。準備が整ったことを確認すると、保存会長は松明を各持ち場に見えるように大きく振り回し「点火!」と叫ぶと一斉に全ての火床に点火される。点火からしばらくは煙が大量に発生し京都市街をほとんど見ることが出来ないが、煙が収まると京都市街に無数のカメラのフラッシュが見られる。火の点火中、弘法大師堂ではずっと浄土院の住職らによる法要が続けられ、拍子木の音が鳴り続ける[17]

かつては、一般人が送り火の当日に大文字山に登って、火のすぐ隣で送り火を見ることが可能であった。山の上からは5山の送り火全てを見ることができ(自分がいる大文字そのものは「大」には見えないが)、京都市街の明かりがだんだん減灯していく様子や、送り火の点火と同時に市街全域で激しく焚かれるカメラのフラッシュが幻想的で、徐々に登山者が増えていった。しかし、不特定多数の人間が火の横にいることは危険が伴うため、当日登山のできる時間を17時までとし(後年に16時までとし)、それ以降は警備員を登山口に配して登山禁止とした。しかし、それでも一般人登山者が減らないうえ、送り火の最中にフラッシュを焚いたり、懐中電灯を点灯する一般人登山者が多く、市街から見て見栄えが良くないため、現在では一般人は点火当日は13時までに下山をし、それ以降は全ての登山口に警備員を配して一切の当日登山を禁止している。それ以外の日の登山は自由で、京都市街の眺望のよい山として人気がある[17]

夏季以外の実施

明治以降、夏以外に戦勝などのイベント絡みで数回点火されたことがある[18]。直近では2000年12月31日に五山全部で点火された[19][20]
休止・規模縮小

戦時中の1943年から1945年まで
灯火管制などの理由から送り火が中止された[21][22]。なお、1943年8月、白シャツ姿の第三錦林国民学校4年生以上400人に市民を加えた約800人が如意ケ嶽に登り人文字を描く「白い大文字」が行われた[22]。この人文字による「白い大文字」は1944年8月にも行われた[22]

2020年の送り火は、観客などの密集によるCOVID-19(新型コロナウイルス感染症)感染拡大防止のため、規模を大幅に縮小して行われることとなった(2021年も同様)[23]

起源・歴史

山に画かれた字跡に点火する行為の起源については、平安時代とも江戸時代とも言われているが、公式な記録が存在するわけではない[24]。場所と行為を具体的に特定した史料が登場するのは近世に入ってからである。『雍州府志』によると、盂蘭盆会施餓鬼の行事として行われていたとあり、『花洛細見図』にも「盂蘭盆会の魂祭」として紹介されていることから、江戸時代前期から中期までにはそれに類する性格を持っており、大文字、妙法、船形、加えて所々の山、原野で火を点けていた。

なお、以前の京都は過度の森林利用のせいでハゲ山が多く、森林は少なく、それが故に送り火という文化が産まれたのではないかという説がある(京都精華大学人文学部教授 小椋純一による)[25]
送り火の様子

江戸時代前期以降、京都の文化や地理を記した書籍が好んで発刊されるようになった。これらでは送り火についても取り上げている。これより前の時期、京都における民間の習俗について触れた史料は乏しく、そのため、送り火については江戸時代以降の史料を中心に見るより他ない。

旧暦の)7月16日の夕刻、あるいは晩に点火する。

その性質から、聖霊の送り火(精霊の送り火)、亡魂の送り火などと呼んでいた。


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