五大老
[Wikipedia|▼Menu]
だが家康に与した大名や徳川家臣団は、玄以らを「奉行」[12]と呼び、けっして彼らを「豊臣家年寄」とみなしてはいなかった。

なお、家康らを「老中」「年寄」と呼んだ例は上記の通りあるが、「大老」と呼んだ例は同時代の史料にはない。この呼称は、江戸期に入ってから江戸幕府大老になぞらえて作られた造語であるとされる。「五大老」の呼称は山鹿素行武家事紀』に、「五奉行」は小瀬甫庵太閤記』などに見られ、のち「五大老・五奉行」という呼び分けが定着するに至った。
研究・考察

旧来、「五大老」とは、淘汰された関白権力に代わり、太閤権力の下で国政を預かる国政機関を指す職制[13]とされてきた。

だが近年、「五大老・五奉行」との呼び分けは誤用であり、「五奉行・五年寄」が正しいと指摘する論文[14]を阿部勝則が発表した。この阿部論文中では今井林太郎中村孝也がその著作中で家康や利長らを「奉行」としている先行研究[15][16]を踏まえつつ、豊臣政権末期の公文書における「奉行」「年寄」の呼び分けが総括されている。そして、太閤権力の主従制的支配権を継承した御奉行五人に対して、年寄五人は統治権的支配権を担ったといえるのではないか、という指摘がなされている。

この阿部論文に対して、「五奉行・五年寄」の呼び分けは、三成ら秀吉側近の豊臣家吏僚が発した文書(および、その同調者が発した文書)に限られるとの堀越祐一の反論[17]もなされて、研究はさらに深化している。

宮本義己は、秀吉は三成らの側近を政権運営の要とするため、奉行を「年寄」として名目的に重みを加えておく必要性を感じ、反対に家康以下の宿老を「御奉行」とよばせることで、勢威の減殺を図ったのではないかと指摘している[18]。ただ一方、「五大老・五奉行」の制度は、秀吉生存時と没後では大きく変質しているとも指摘する。秀吉が企図していたのは家康と利家の専決による政権運営(「内府・大納言体制」)であり、合議制は秀吉の遺命には含まれていないとする。だが、秀吉の没後、三成らの主導で定められた十人衆起請文[19]によって合議・多数決による政権運営(「十人衆合議体制」)が打ち出され、このとき初めて合議制が確定したとする[20]

一方、白峰旬は、『十六・七世紀イエズス会日本報告集』の五大老・五奉行に関する記載について論じ、十人衆は(家康も表向きは)秀吉の遺命に沿うよう心がけたと結論づけている。五大老・五奉行のスキームや権限・職務について決定し、集団指導体制を取るよう計ったのは死去直前の秀吉であったというのである。また、国家統治権について家康の権力だけを突出させることを秀吉は当初から意図していなかったとしている[21]

矢部健太郎によると、「五大老制度の本質は豊臣政権の根幹をなしていた武家関白制と連動して形成された「清華成」(清華家並の家格を得ること。武家清華家)であり、その成立は秀吉の天下平定以前の天正16年(1588年)まで遡るとしている。すでに清華成を果たしていた家康・秀家に加えて、この年、輝元・景勝が、のち利家・隆景が清華成を果たし、これが後の五大老制の端緒になったとして、江戸幕府成立後に徳川氏が豊臣政権において毛利・上杉ら外様大名と同格扱いされていた事実(「清華成」)を隠す史料操作が行われていた可能性があると指摘していた[22]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 能登国21万石余は前田利政および長連龍が領有

出典^ 伝「水口藩加藤家文書」(『特別展 五大老』パンフレット所収)
^ 「家康・輝元・隆景連署起請文前書案」(防府毛利報公会蔵・『特別展 五大老』パンフレット所収)
^ 「浅野家文書」(『大日本史料』)
^ 『毛利家文書』天正19年(1591年)旧暦3月13日付(『大日本古文書 家わけ文書第8 毛利家文書之三』所収)では、112万石。
^ 「秀康宛て秀忠書状」(大阪城天守閣蔵・『特別展 五大老』パンフレット所収)
^ 『武家事紀』第三十一
^ 「毛利家文書」(『大日本史料』)「加能越古文書」(『新訂徳川家康文書の研究』中巻)
^薩藩旧記雑録』後編
^ 「島津家文書」(『大日本史料』)
^ 『萩藩閥閲録』『義演准后日記』
^ 「真田文書」(『新訂徳川家康文書の研究』中巻)
^ 「毛利家文書」「吉川家文書」(『大日本史料』)「秋田家文書」(『秋田県史』資料)など
^ 脇田修『近世封権制成立史論 織豊政権の分析II』東京大学出版会、1977年。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-4130200462。 
^ 阿部勝則「豊臣五大老・五奉行についての一考察」『史苑』49巻2号、1989年。 
^ 今井林太郎『石田三成』


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:38 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef