重工業と並んで五大湖周辺の経済を支えているのは観光業である。冷涼であるため、湖内に点在する無数の島々にあるコテージやキャンプ場をはじめとする避暑地が点在し、クルージングやヨット、キャンプなどのバカンスを楽しむ観光客が多い。また、カワカマス目(ノーザンパイクやマスキー)やサケ類が豊富であり釣りのメッカでもある。趣味的・娯楽的な釣りと合わせて漁業も発達し、鮭・マスや白身魚などの漁業収入は地域一帯で年間40億米ドルに達する。 この地域に最も早く訪れたヨーロッパ人はフランス人カルチェである。1608年、セントローレンス川河口のケベックシティにサミュエル・ド・シャンプランによって定住植民地が建設されると、シャンプランはここを拠点としてセントローレンス川をさかのぼり、オンタリオ湖とヒューロン湖東岸を自ら探検するとともに、ミシガン湖以外の五大湖のあらましを現地のインディアンから聞き取って明らかにした。このほかにも、スペリオル湖を「発見」したエチエンヌ・ブルレなど数人の探検家や毛皮商人、宣教師によって、1634年には最後のミシガン湖の存在も明らかになり[14]、1670年代までには五大湖沿岸はヨーロッパ人にすべて知られるようになっていた。この沿岸を拠点としてフランス人はなおも奥地の探検を進め、1673年にはルイ・ジョリエが五大湖からミシシッピ川に到達し、1681年にはロベール=カブリエ・ド・ラ・サールがミシシッピを通ってメキシコ湾にまで到達した。これにより北アメリカ大陸中央部を南北に貫く幹線水路が開通し、五大湖水系とミシシッピ川水系を拠点としてフランスは広大なヌーベルフランス植民地を建設した。しかし、ヌーベルフランスは面的には広い地域だったものの人口は非常に少なく、五大湖周辺にもいくつかの交易の拠点が置かれているのみであり、都市といえるほどの都市は存在していなかった。ただし、フランスが建設した砦のいくつかは現在でも地名として残っており、デトロイトなどのフランス語由来の地名や、シカゴの読み方(英語読みならチカゴになる[15])などにその名残を残している。 フランスは五大湖水系およびミシシッピ川水系全域の領有権を主張しており、北アメリカ大陸内陸部に広大な植民地を築くことで、北アメリカ大陸東岸のイギリス植民地の発展方向をふさぐ形となっていた。このため両国間には小競り合いが絶えず、北米植民地戦争と呼ばれる戦争を断続的に100年以上続けたが、結局最後の戦争であるフレンチ・インディアン戦争においてフランスは大敗し、1763年のパリ条約でフランスは五大湖地域全域をイギリスへと割譲することとなった。その後、1775年に始まったアメリカ独立戦争においてイギリスは敗北し、1783年9月3日のパリ条約によって五大湖の南岸地区は新しく独立したアメリカ合衆国へと割譲された。一方、五大湖北岸のカナダはイギリス領にとどまり、以後ミシガン湖を除く4つの湖はアメリカとカナダの国境線をなすこととなった。 アメリカ合衆国独立時において、13植民地の領域は五大湖に到達していなかった。これは五大湖地域がイギリスに割譲された際、1763年宣言によってアパラチア山脈以西の植民が禁止されていたからである。しかしすでに独立戦争時から、いくつかの植民地は五大湖地域への領土要求を本格化させ、植民地間で領土要求が重複する地域も存在した。
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