五・一五事件
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田崎(元武)は新田目直寿[5]のつづく共産系であった。新田目は本式の共産党員として活動しているそうな」とある[6]
経過
決行前日

5月14日、同志三上卓海軍中尉が、電報による連絡を受けて呉から上京し、黒岩勇海軍予備少尉と共に芝の水交社で古賀、中村と合流。三上はこの時点で初めて計画の詳細を知る。満州から帰校した士官候補生らにも翌日の決起が連絡された。古賀ら4名は最終準備を済ませると神楽坂の料亭で最後の酒宴を催した。実はこの日、先に身柄を拘束されていた同志の浜大尉が計画の一部を当局に白状したため、16日に古賀と中村を拘束することになっていた。
決起当日

5月15日朝、西田税の自宅に村中孝次陸軍中尉、栗原安秀陸軍中尉ら陸軍青年将校らが集まり、海軍が陸軍士官候補生を巻き込んで決起する事を危惧して制止策を検討していた。午前10時30分頃、陸軍士官学校生との連絡役であった池松武志・元陸軍士官学校本科生が坂元兼一・陸軍士官学校生と芝で接触し計画の詳細を確認、坂元は士官学校へ戻り同志に計画を伝えた。午後1時30分、菅波三郎陸軍中尉から呼び出された池松と坂元は、菅波から決起を思い止まるよう説得され、計画を教えるよう求められるが、池松らはこの日が決行日であることは明かさずに、説得を振り切って集合場所へ向かう。

三上と黒岩は旅館において話し合い、古賀らには無断で決起の趣旨を記した檄文を作成、謄写機で約1000枚のビラを刷った後、集合場所へ向かった。
首相官邸襲撃襲撃直後の首相官邸の日本間の玄関の様子

5月15日当日は日曜日で、犬養首相は折から来日していたチャップリンとの宴会の予定変更を受け、終日官邸にいた。

午後5時5分、三上中尉率いる第一組9人は靖国神社に集合した。三上中尉、黒岩予備少尉、陸軍士官学校本科生の後藤映範、八木春雄、石関栄の5人が表門組、山岸宏海軍中尉、村山海軍少尉、陸軍士官学校本科生の篠原市之助、野村三郎の4人を裏門組としてタクシー2台に分乗して首相官邸に向かった。タクシー車内において武器の分配と計画の最終確認が行われた。ところが、三上の拳銃が表門組車内に見当たらず、途中でタクシーを止め、裏門組から拳銃を受け取った。しかし、その拳銃も故障しており、全弾装填出来ない状態であった。官邸付近に到着すると、三上は拳銃を出して運転手を脅し、表門を突破して表玄関前に車を着けるよう指示した。恐怖した運転手が言われるまま車を進行させ玄関前に着けると、5名は降車し午後5時27分頃、正面玄関から官邸に入った。

対応に出た警視庁の警察官に対し、来客を装い首相に面会したい旨を告げると、警察官は一同を待たせて奥へ向かった。門前にいた守衛が不審に思って駆けつけて来ると、三上らは拳銃を取り出し発砲、警察官の後を追い、手当たり次第に部屋の扉を開けて首相を探した。表の洋館から首相の居室である日本館に続く扉を蹴破った三上らは、そこにいた警備の田中五郎巡査に首相の居場所を尋ねるが、答えなかったため銃撃した(田中巡査は5月26日に死亡する[7])。

表門組と裏門組は日本館内で合流。三上は日本館の食堂で犬養首相を発見すると、直ちに拳銃を首相に向け引き金を引いたが[注釈 1]、一発しか装填されていなかった弾を既に撃ってしまっていたため発射されなかった。三上は首相の誘導で15畳敷の和室の客間に移動する途中に大声で全員に首相発見を知らせた[8]。客間に入ると犬養首相は床の間を背にしてテーブルに向って座り、そこで自分の考えやこれからの日本の在り方などを聞かせようとしていた。この時、首相と食事をするために官邸に来ていた嫁の犬養仲子と孫の犬養康彦が姿を現したが、黒岩が女中に命じて立ち去らせた。一同起立のまま客間で首相を取り囲み、三上が首相といくつかの問答をしている時、山岸が突然「問答無用、撃て、撃て」と大声で叫んだ。ちょうどその瞬間に遅れて客間に入って来た黒岩が山岸の声に応じて[9]犬養首相の頭部左側を銃撃、次いで三上も頭部右側を銃撃し、犬養首相に深手を負わせた。すぐに山岸の引き揚げの指示で9人は日本館の玄関から外庭に出たが、そこに平山八十松巡査が木刀で立ち向かおうとしたため、黒岩と村山が一発ずつ平山巡査を銃撃して負傷させ、官邸裏門から立ち去った[10]。官邸付近にいた警察官が、不審に思って近づいてくるとこれを拳銃で威嚇、警察官が怯んだ隙に逃走し、拾ったタクシー2台に分乗し桜田門の警視庁本部へ向かった。

三上らは犬養首相が即死したと思っていたが、首相はまだ息があり、すぐに駆け付けた女中のテルに「呼んで来い、いまの若いモン、話して聞かせることがある」と強い口調で語ったと言う。家族の連絡を受けて駆けつけた医師が応急処置を施し、息子で首相秘書官の犬養健の問いかけにも応じていたが、次第に衰弱、午後9時過ぎに容態が急変し、午後11時26分になって死亡した。
内大臣官邸襲撃

午後5時頃、第二組の古賀中尉以下5名は泉岳寺前にある小屋の二階に集合[11]、計画を確認するとタクシーに乗車して三田の内大臣官邸に向かった。午後5時25分、第二組は内大臣官邸に到着。古賀が邸内に手榴弾を投げ込んで爆発させた。更に古賀は警備の警察官に向かって発砲し負傷させる。池松元陸軍士官学校本科生も手榴弾を投げ込んだが不発であった。古賀は警視庁での決戦を重視し、牧野内府殺害計画を放棄、内大臣官邸については威嚇に止める事として、再びタクシーに乗車した。途中、三上中尉らが準備したビラを街頭に散布し、警視庁に向かった。

襲撃時、牧野内府は在宅していたが、奥座敷にいたため騒ぎに気づかなかったという。古賀は憲兵隊に出頭した後に、牧野内府を殺害しようとしなかった事を同志らに問いただされ、謝罪した。
立憲政友会本部襲撃

午後4時30分頃、第三組の中村海軍中尉以下4人は新橋駅に集合、タクシーに乗って立憲政友会本部に向かった。午後5時30分頃、休日で人影のない政友会本部に到着すると、中村が玄関に向かって手榴弾を投げたが不発であったため、中島忠秋・陸軍士官学校本科生が続いて手榴弾を投擲、玄関の一部に損傷を与えた。一行はすぐに立ち去り、警視庁に向かった。
三菱銀行本店襲撃

第四組である奥田秀夫明治大学予科生で血盟団の残党)[12]は、単独で行動を開始、三菱銀行本店の偵察を行う。午後7時20分頃、他の組が行動を開始して市内が騒然とする中、奥田は三菱銀行本店に到着、裏庭に向かって手榴弾を投げ込むが、木に当たって路上で爆発し外壁等に損傷を与えただけだった。

その後、奥田は友人宅へ泊まり、翌日自宅に帰ったところを逮捕された。
警視庁襲撃

首相官邸を襲撃した三上中尉ら第一組の先発5名は「決戦」を挑むため警視庁本部前に到着した。しかし、三上らの予想に反して警視庁では何の警戒体制も取られておらず、拍子抜けした三上らは自首するためそのまま麹町の憲兵隊本部へ向かった。その後、政友会本部から転進して来た第三組が警視庁前に到着し手榴弾を投擲するが、建物には届かず電柱を爆破したのみに終わる。この時、内大臣官邸から転進してきた第二組もほぼ同時に到着していたが、第三組はそれに気づかずそのまま走り去り、ビラを配布しつつ憲兵隊本部へ向かった。その後、第二組も手榴弾2発を投擲するが、いずれも不発であった。不審に思って近づいてきた警察官に古賀が拳銃を発砲、更に、警視庁の玄関に向かって池松らが発砲し、居合わせた警視庁書記1人と読売新聞記者1人を負傷させると、警視庁を立ち去って憲兵隊本部へ向かう。更にその後、第一組の残りの4名が警視庁前に到着、他の組が襲撃した後を見て、庁内に侵入、警視総監の居場所を尋ねるが、「不在」との回答を受けるとガラス扉を蹴破って立ち去り、憲兵隊本部へ向かった。

このように警視庁での「決戦」を目指しながらも、集合時間さえ決まっておらず、各組がバラバラに行動して連携も取れていなかったことにより、警視庁での「決戦」は失敗に終わった。
日本銀行襲撃

黒岩ら第一組4名は警視庁を襲撃した後、自首するために憲兵隊本部に到着したものの、成果に物足りなさを感じ日本銀行を襲撃することにした。再び車に乗って日本銀行正門前に到着した4名は手榴弾を投げて爆発させ、敷石等に損傷を与えたが、そのまま再び憲兵隊本部へ戻った。
変電所襲撃

別働隊の農民決死隊7名[注釈 2]は、午後7時ごろに東京府下の変電所6ヶ所(尾久の東京変電所、鳩ヶ谷変電所、淀橋変電所、亀戸変電所、目白変電所、田端変電所)を襲い「帝都暗黒」を目論み、配電盤を破壊したり、配線を切断するなどの破壊活動を行なったが、単に変電所内設備の一部を破壊しただけに止まり、停電はなかった。
西田税宅襲撃

事件当日にも、西田税の自宅には陸軍青年将校らが集まり、海軍が陸軍士官候補生を巻き込んで決起する事を制止しようと検討していた。陸軍将校らが立ち去った後、血盟団員の川崎長光が西田宅を訪れ面会を求めた。西田は面識のある川崎を招き入れ、書斎で2人で会話していたところ、川崎が隙を見て突如拳銃を発射した。西田が反撃して格闘となるが、川崎は更に拳銃を連射し西田に瀕死の重傷を負わせ逃亡した。西田は病院に搬送され一命を取り留めた。
出頭・検挙

第一組・第二組・第三組の計18人は午後6時10分までにそれぞれ麹町の東京憲兵隊本部に駆け込み自首した。一方、警察では1万人を動員して徹夜で東京の警戒にあたった。

6月15日、資金と拳銃を提供したとして大川周明が検挙された。

7月24日、橘孝三郎ハルビンの憲兵隊に自首して逮捕された。

9月18日、拳銃を提供したとして本間憲一郎が検挙された。

11月5日には頭山秀三が検挙された。
裁判関与した民間人に対する裁判

事件に関与した海軍軍人は海軍刑法の反乱罪の容疑で海軍横須賀鎮守府軍法会議で、陸軍士官学校本科生は陸軍刑法の反乱罪の容疑で陸軍軍法会議で、民間人は爆発物取締罰則違反・刑法殺人罪・殺人未遂罪の容疑で東京地方裁判所でそれぞれ裁かれた。元陸軍士官候補生の池松武志は陸軍刑法の適用を受けないので、東京地方裁判所で裁判を受けた。起訴までの間に、陸海軍と司法省の間で調整が図られ、陸海軍側は反乱罪を軍人以外にも適用する事を主張したが、司法省の反対により反乱罪の民間人への適用は見送られた。
海軍軍法会議

海軍軍法会議は1933年(昭和8年)5月17日、予審を終えて反乱罪・同予備罪で古賀海軍中尉、三上海軍中尉ら10名を起訴した[2]。三上らは公判において自分たちの主張を国民に訴えかけて広めることにより、公判を通じて国家改革を進める事を獄中で誓い合った。7月24日、公判が開始されたが、この際、被告人達には新調した軍服を着ることが特別に許可された。


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