于山島
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『高麗史』巻五十八 地理三

鬱陵島
県のちょうど東の海にある。新羅のとき于山国と称した。一説に武陵や羽陵とも言われ、百四方(約40km)ある。智證王十二年から太祖十三年の間、その島の人は白吉を使いに出し、その地の豆などを献上した。穀宗十一年、王は鬱陵の地が広く土地が肥え、昔は民を居住させることができる州や県があったと聞いた。溟州道の倉金を監督として擁立し遣わせ、回奏を擁立し見に行かせたという。島の中央には大きな山があり、山頂から東に向かって行くと一万歩余りで海に至る。西に向かって行くと一万三千歩余り、南に向かって行くと一万五千歩余り、北に向かって行くと八千歩余りだ。村落の址が七ヶ所あり、石仏や鉄の、石塔がある。柴胡石南花が多く生え、岩石が多くあるので人が居住することができないが、何とかそこで寝ることにした。一説には、于山・武陵この二島は互いに距離は遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる。
『世宗実録』(1454)の于山島.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに世宗実録地理志の原文があります。

1454年に編纂された『世宗実録』世宗七年の項には、「于山茂陵等の所で按撫使の金麟雨は‥‥」となっており、それまで「鬱陵」「武陵」「羽陵」などと呼んでいた島を今度は「茂陵」としている。「于山茂陵等」として、于山と茂陵が中心になっており、これまでの経緯からその両方が鬱陵島を指していると考えられる。韓国側は、この地理志の記録をもって于山島を竹島に比定し、以降の史料に出てくる全ての于山島に竹島を自動的に当てはめて解釈をしている。また、1417年から1438年まで実施された鬱陵島の刷還政策の過程で得た竹島の知識が反映されたとする韓国人学者もいるが[8]、それらを示す具体的な史料は現存しない。日本側は、地理志の于山島や于山国の内容は、過去の『高麗史』や『三国史記』を編集した内容になっていると解釈している。
原文
『世宗実録』世宗七年十月乙酉條

于山茂陵等処按撫使金麟雨 捜捕本島避役男婦二十人 来復命 初麟雨領兵舩二艘 入茂陵島 船軍四十六名 所坐一艘 飄風不知去向 上謂諸卿曰 麟雨捕還二十餘人 而失四十餘人 何益哉『世宗実録』地理志 江原道蔚珍縣

于山武陵二島在県正東海中 二島相去不遠 風日清明則可望見 新羅時称于山国一云欝陵島 地方百里 恃険不服 智證王十二年 異斯夫為何琵羅州軍主 謂于山人愚悍 難以威来 可以計服 及多以木造猛獣 分載戦船 抵其国 誑之曰 汝若不服 則即放此獣 国人懼来降 高麗太祖十三年 其島人 使白吉 土豆 献方物 毅宗十三年 審察使金柔立等 回来告 島中有泰山 従山頂向東行至海 一万余歩 向西行 一万三千余歩 向南行 一万五千余歩 向北行 八千余歩 有村落基址七所 或有石仏像 鉄鐘 石塔 多生柴胡蒿本 石南草 我太祖時 聞流民迯人其島者甚多 再命三陟人金麟雨 為安撫使 刷出空其地 麟雨言 土地沃饒 竹大如柱 鼠大如猫 桃核大於升 風物称是
翻訳
『世宗実録』世宗七年十月乙酉條

于山茂陵等の所で按撫使の金麟雨が、役を逃れた男女二十人を探し捕まえ復命した。最初、麟雨は兵船二艘で茂陵島に入ったが、船軍四十六名の一艘の所在が嵐で行方不明になった。上様(王)は諸卿に「麟雨は二十人余りを捕まえて還ったが、四十人余りを失っては何の利益があろうか。」と言った。『世宗実録』地理志 江原道蔚珍縣
于山・武陵の二島は県の正に東の海の中に在る。二島はお互いにそれほど遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる。新羅時代には于山国と称していた。一説に鬱陵島と言い、百里四方ある・・
『八道総図』の于山島東国輿地勝覧付属の八道総図(鬱陵島周辺部)

于山島が描かれている地図は多数見つかっているが、その内最も古い地図は1481年成宗12年)に編纂された『東国輿地勝覧』付属の『八道総図』である。韓国では、世宗実録地理志に基づく推定をこの地図の于山島に当てはめることにより竹島であるとする。日本では、鬱陵島の西にこの様な大きな島は存在しないこと及び同時代の記録である太宗実録に記載された金麟雨の于山島実地調査が鬱陵島を示すことから、二重写しの鬱陵島と考えている。
16世紀の文献における「于山」
『新増東国輿地勝覧』(1530)の于山島

1530年に編纂された『新増東国輿地勝覧』では于山島と鬱陵島を併記し、添付の江原道の地図には于山島を鬱陵島の西に描いている。しかし鬱陵島の西にはその様な島は存在しない。本文にもある通り一説に本来一つの島であるとしていることから、鬱陵島を二島と誤認していたことが分かる。

この文章には「天候が清明であれば山頂の樹木及び山麓の海岸を歴々見ることができる。」という一文がある。韓国では、この一文を竹島(独島)から見た鬱陵島だと主張しており、日本では朝鮮本土から見た鬱陵島であるとする説もある。しかし、どちらも実際には快晴であっても山頂の樹木や山麓の海岸を歴々見ることはできない。そのため、これは過去の『高麗史』や『世宗実録』を参考に、鬱陵島の西にあるとされる鬱陵島から見た于山島の噂をそのまま加筆記載したものと考えられている。「三つの峰が及業(きゅうぎょう)として空を支え、南の峰はやや低い。」「于山と鬱陵は本来一つの島で百里(約40km)四方ある。」の部分は鬱陵島の様子を示しており、また「風が良ければ二日で到達できる」と言う部分では、当時の船で朝鮮本土から鬱陵島まで二日、日本側の資料で竹島(鬱陵島)から松島(現在の竹島)まで一日かかるので、于山島・鬱陵島は朝鮮本土から行く鬱陵島と考えられる。現在の竹島を于山島とする説では、距離だけでなく添付の地図の位置や大きさも全く違い、その可能性は極めて低い。

1760年代に編纂された『輿地図書』では、「欝陵島 一羽陵 島在府東南海中 三峯岌業掌空 南峯稍卑 風日清明則峯頭樹木山根沙渚歴々可見」と新増東国輿地勝覧とほぼ同じ記述内容をもって「鬱陵島」の説明としている。
なお、1690年代に起きた鬱陵島(当時の日本ではこの島を竹島と呼んでいた)をめぐる日本と朝鮮との領有問題(竹島一件)の生じた時には、当時の朝鮮はこの一文を理由に鬱陵島は古来より朝鮮本土から見えていたので朝鮮領だと主張している。
原文[9]
『新増東国輿地勝覧』巻之四十五 蔚珍縣

于山島 欝陵島
一云武陵 一云羽陵 二島在県正東海中 三峯及業掌空 南峯梢卑 風日清明則峯頭樹木 及山根沙渚 歴々可見 風便則二日可到 一説于山 欝陵 本一島 地方百里
翻訳
『新増東国輿地勝覧』巻之四十五 蔚珍縣

于山島 鬱陵島
時に武陵、或いは羽陵とも呼ばれ、二島は県の真東の海中に在る。三つの峰が及業(きゅうぎょう)として空を支え、南の峰はやや低い。天候が清明であれば山頂の樹木及び山麓の海岸を歴々見ることができる。風が良ければ二日で到達できる。一説に于山と鬱陵は本来一つの島で百里(約40km)四方ある。
『西渓雑録』の于山島1628年に書かれた朝鮮半島の地図の複写。于山島と鬱陵島が描かれている。

朴世堂が書いた『西渓雑録』の中の「鬱陵島」の項に、ある僧侶からの伝聞として于山島の記述がある。その記述によると、その僧侶は文禄の役(1592?1593年)の時に日本の捕虜となって日本の船で鬱陵島に行ったと言っており、その後他の捕虜7人と朝鮮半島まで帰ったとしている。


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