大元帥(海軍大元帥
)陸軍上級大佐
海軍上級大佐
空軍上級大佐
大佐
陸軍上級大尉
海軍上級大尉
空軍上級大尉
大尉
上級曹長(上級上等兵曹)
曹長(上等兵曹)
軍曹(一等兵曹)
伍長(二等兵曹)
兵
兵長(水兵長)
上等兵(上等水兵)
一等兵(一等水兵)
二等兵(二等水兵)
括弧内は海軍における呼称例
大日本帝国海軍の下士官(だいにほんていこくかいぐんのかしかん)は、帝国海軍の下士官について詳述する。 大日本帝国海軍では、下士官に任官するためには勤務成績が良好なばかりでなく、予科練などを除くと原則として下士官任用試験に合格する[1]必要があった。このため多くは、各種学校(砲術学校や水雷学校など)の普通科練習生[注釈 1]を卒業し、その証としての特技章を持っていることが必要条件であった。(第二次世界大戦末期には基準が緩和され、特技章なしで上等兵曹まで昇進した者もいる)。各兵種(飛行兵や整備兵など)においては当時としては高度な知識と技能の教育が行われた。(解析学、物理学、気象学なども教育された。)平時は、水兵として入団してから下士官に任官するのには最短で約4年半、入団から准士官まで昇進するのには最短約12年半[注釈 2]を要した。実際には優秀な人でも兵曹長までに15年程度を要したようである。准士官昇進直前の下士官は軍服の腕に縫いつける善行章(海軍在勤3年につき1本を付与される。15年在勤で5本になるが、不祥事があると褫奪される。付与本数は最高5本)の様子から「洗濯板」と俗称され畏敬された。上等兵曹の最先任者のうち人格、勤務成績共に優れているものは「先任下士官」に任命され、将校と下士官兵との接点役になり、一般の下士官兵からは士官以上に畏敬された。 海軍では明治元年から明治3年・明治4年の際に政府直隷の艦船及び旧諸藩より献納した艦船における乗組員の官職名のうち実地軍人の職務に従事していたものは、官等表に掲載する純然たる本官ではなくとも服役年計算の際に総て軍人として取り扱うことにしており[2] [注釈 3]、艦船乗組員の官職名のうち下士と看做すものには一等下士官、二等下士官、機関士補(きかんしほ[5])、水火夫小頭(すいかふ[6]・こがしら)、水火夫小頭助、楽手(がくしゅ[7])等がある[8] [9] [2] [注釈 4]。 1870年8月8日(明治3年7月12日)に兵部省海軍下等士官以下月給表を制定しており、これに掲載している海軍下等士官(かとうしかん[11])は水夫上長(すいふじょうちょう[12])、一等水夫長(いっとう・すいふちょう[12])、二等水夫長、三等水夫長、水夫長試職、按針手上長、一等按針手、二等按針手、三等按針手、按針手試職、砲手上長(ほうしゅ[13]・じょうちょう)、一等砲手、二等砲手、三等砲手、砲手試職、鼓手長(こしゅ[14]・ちょう)、一等鼓手、二等鼓手、楽手長、一等楽手、二等楽手、木工長(もっこうちょう[15])、一等木工(いっとう・もっこう[15])、二等木工、三等木工、木工試職、一等理事(いっとう・りじ[16])、二等理事、一等療養夫(いっとう・りょうよう[17]・ふ)、二等療養夫、一等穀供長(いっとう・こっく[18]・ちょう)、二等穀供長、三等穀供長、一等縫帆、二等縫帆、三等縫帆、機械手上長、一等機械手、二等機械手、三等機械手、機械手試職、一等鍛冶(いっとう・たんや[19])、二等鍛冶、三等鍛冶である[20] [21] [注釈 5]。
概説
沿革
明治元年から明治4年にかけて