二条城
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城内全体が国の史跡に指定されている他、狩野探幽をはじめとする狩野派一門など各名工らが荘厳華麗な金碧画から可憐な花鳥画までの障壁画と多彩な透彫欄間飾金具ともに日本唯一本来徳川将軍家城郭御殿完全遺構である二の丸御殿(6棟)国宝[9]に、旧桂宮邸である本丸御殿をはじめ22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、小堀遠州の代表作と知られる二の丸庭園特別名勝に指定されている。

城外史跡には、築城時代からの史跡二条城外堀護岸が存在する。

現代史では1994年平成6年)にユネスコ世界遺産世界文化遺産)に歴史的および文化的価値の高さから洛中唯一の城郭建築として「古都京都の文化財」として登録された。
旧二条城跡について

日本の歴史書において二条城と呼ばれることのあるものは複数ある[10]
室町幕府13代将軍・足利義輝の御所。もともとは管領斯波氏の邸宅・武衛陣(武衛邸)のあった所。「二条御所武衛陣の御構え」などと呼ばれていた。現在は単に二条御所とも呼ばれている。

室町幕府15代将軍・足利義昭の御所として、織田信長によって作られた城。上記の義輝の二条御所を改築、拡張したもので、こちらも二条御所と呼ばれている。この地は二条通からは遠く離れている。ただし、平安京条坊制の「二条」(二条大路と中御門大路(現・椹木通)に挟まれた地域)には城域の南部分がわずかに含まれる。義輝の二条御所とともに「二条」の名を冠して呼ばれるのはこのためと考えられる。

織田信長が京の滞在中の宿所として二条晴良からその邸宅・二条邸を譲り受けて整備したもの。後に皇太子の誠仁親王に献上している。この邸宅は「二条新御所」と呼ばれる。この「二条」は二条家の屋敷であったことがその由来となっている[11]

徳川家康慶長年間、京都における拠点として造営した城[12]。当初は方形単郭式の平城だった[12]。のちに宮内省の所管となり、「二条離宮」を経て、現在は「二条城(元離宮二条城)」と呼ばれる。

現存するのは4の城である。

1と2は同じ場所に造られた御所である。1を「二条城」と称した例は当時から現代に至るまで無いが、2の前史としてここに紹介しておく。

2と3は同じものと見る説[13]がかつてはあったが、『信長公記』やその他の史料、及び発掘結果、残存地名などを根拠として、別のものとするのが現在では通説となっている。2と3について「二条城」と呼ぶのは、4が完成した江戸時代以降のことであり、4と区別する趣旨で「旧二条城跡」[14]と呼ばれている。

この節では、近世以降の現在の二条城である4.の前史として1の「武衛陣の御構え」と、2と3の「旧二条城跡」について略説する。
足利義輝の二条御所(武衛陣の御構え)「二条御所#足利義輝の時代」も参照

永禄8年(1565年)、将軍義輝は斯波氏の屋敷跡・武衛陣に自らの城を築いた(斯波氏の屋敷は洛中洛外図にも「ぶえい」として登場している。また、現在の旧二条城跡地の地名である「武衛陣町」は、斯波氏の職名を由来としているとされている)。しかし完成寸前の6月12日、三好三人衆に襲撃されて焼失している(永禄の変)。その後、跡地には真如堂が移された。二条古城 石垣(京都御苑内)
足利義昭の二条御所(二条古城)「二条御所#足利義昭の時代」も参照

永禄11年(1568年)9月、足利義昭は織田信長を後ろ盾として入京し、同年10月18日、将軍に就任する[15]。義昭は、はじめ六条本圀寺に入った後、細川京兆家邸、本能寺と居所を移し、再び本圀寺に戻ったようである[16]。永禄12年1月5日、三好三人衆らに本圀寺を攻められ、これを撃退した[17]本圀寺の変)。これを受けた信長は、義昭の新たな屋敷として、義輝の御所を再興する[17]。普請に際しては、信長自ら現場で指揮をとった[17]。大工奉行には村井貞勝島田秀満が任じられた。

武衛陣の御構えの跡地を中心に北東へ拡張、約400メートル四方の敷地に2重の堀や3重の「天主」を備える城郭造の邸宅とした[18]

建物の多くは本圀寺から移築され[19]、屏風や絵画などの什器までも本圀寺から運び込まれた。また、細川氏一族で分家・細川典厩家細川藤賢邸から、「鳴り物入り」と呼ばれる「藤戸石」が搬入された。築城は約70日という短期間で終え同年4月に義昭はここへ本拠を構えた。城の石垣には京都中から集められた墓石や石仏も使われ、城を訪れた山科言経は「石くら」(石垣)に驚嘆している。この事実はこの城が初めて本格的に石垣を積んだ城であったことを示している。周辺からは金箔瓦も発掘されており急ごしらえにしては豪壮な殿舎であったと考えられている。当時は「武家御所」「武家御城」「公方様御構へ」などと呼ばれていた。

なお、元亀3年(1572年)3月、信長は義昭の強い勧めもあってこの城の北方、武者小路辺に自らの屋敷を着工している(未完成)。建築物を奪われることに困った本圀寺の僧侶らは松永久秀に、信長への移築中止の取り成しを頼んだが無理だと断られた。また1,500人の法華信徒らが莫大な品を信長に献上し、さらに望み通りの金銭の提供も申し出て免除を請い、将軍や朝廷にも働きかけたが、信長は取り合わなかった(フロイス『日本史』)。

ところが義昭と信長の関係は徐々に悪化し、元亀3年に義昭の信長追討令に応じた武田信玄が西上を開始し三方ヶ原の戦いで勝利を収めたのを知ると、翌天正元年(1573年)3月に義昭は二条城において信長に対し挙兵する。信長は上京の町屋を焼き払い二条城を包囲するが、城自体に対しては攻撃を控え正親町天皇の勅命を得て、和議が成立する。しかし、7月に再び義昭は宇治槇島城において挙兵する(槇島城の戦い)。この時、二条城には公家日野輝資高倉永相、義昭の側近で幕臣である伊勢貞興三淵藤英が守備のため置かれたが、織田軍に包囲されると一戦も交えず降伏した。この際に御殿などは兵士たちによって、破壊されたと伝えられる。

この直後、槙島城の義昭も降伏し畿内から追放され、室町幕府は実質的に滅ぶことになる。二条城に残った天主や門は天正4年(1576年)に解体され、安土へ運ばれ築城中の安土城に転用された。

1975年(昭和50年)から1978年(昭和53年)まで京都市営地下鉄烏丸線建設に先立つ烏丸通の発掘調査が行われ、この信長の二条城の石垣および2重の堀の跡が確認された。この際発掘された石垣にあった石仏が西京区の洛西竹林公園内に展示されている。また、石垣の一部が京都御苑椹木口の内側及び現二条城内に復元されている。さらに、別地点における発掘調査によって検出された堀跡から出土した石仏群は京都文化博物館に展示されている。
織田信長・誠仁親王の「二条新御所」「二条新御所」も参照「此附近 二条殿址」の碑(京都市中京区両替町通御池上る東側、京都国際マンガミュージアム(旧龍池小学校)付近)[20]

織田信長が烏丸?室町の御池上る付近に設けた城館。

信長は天正4年(1576年)4月に京に滞在した際、二条通南側の妙覚寺(現在地とは異なる)に宿泊したが、寺の東側に隣接する公家の二条家の邸宅の庭の眺望を気に入った。二条邸(二条殿・押小路烏丸殿)は当時、「洛中洛外図屏風」に必ず描かれるほどの名邸であった。


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