1982年に東映京都撮影所で『蒲田行進曲』が撮影された際、同撮影所の佐藤雅夫プロデューサーとつかこうへいの間で企画されたのが最初[3]。このため当初は東映で配給される予定だった[3]。
井筒和幸監督は『(金)(ビ)の金魂巻』と平行して製作準備にかかったが、脚本に問題があった[4]。つかの脚本は、ト書きがなくシュールで舞台向きだったので、映画には使えないものだった[4]。映画向きに修正された脚本に怒ったつかは、クレジットから自分の名前を外してくれと不満を露わにした[4]。
前年1984年8月に山口組と一和会の抗争(山一抗争)が関西で発生し[5][6]、1985年5月7日に大阪の住宅密集地で1日2件の事件があり[6]、犯人が住宅地や商店街を逃げ回り、住民を震え上がらせる等[6]、製作当時の関西では暴力団抗争が継続していた[4]。このため葬儀シーンなどを予定していた兵庫県神戸市ロケに兵庫県警が難色を示し[7][8]、1985年5月23日からの神戸市ロケでクランクインを予定していたが、ロケ地に同市灘区の山口組本家近くの住宅街を含んでいたため[8]、兵庫県警から許可が降りず、製作の東映は兵庫県警と3度に渡り話し合いを持ち[8]、「任侠映画ではない」等と説明を繰り返し、灘区のロケを中止して、改めて許可を取り付け、予定より5日間遅れて、1985年5月28日に東映京都撮影所でクランクインした[8][9]。結局、神戸ロケは大幅に縮小されたが[7]、東映は故三代目組長宅の近くでロケを強行しようとし[7]、市民団体自治会連合会が[7]「あまりにも無神経」と激怒し[7]、当映画に対しヤクザ映画製作反対の運動が起きた[4]。「街にヤクザ映画ロケはお断り」の横断幕まで作ってデモをして、それが新聞の社会面に載ったが[5]、東映は神戸ロケを強行した[5]。井筒和幸監督は「さすが、天下の東映」と褒めた[5]。1985年5月28日から7月後半までほとんど東映京都撮影所で撮影された[9]。本作は東映製作と書かれた文献もある[8]。
角川映画は、この映画の前売り券を日本生命に押し付けていた[4]。日本生命が前売り券を配布したファミリー層の観客のために、角川春樹から井筒監督にストリップショーのシーンのカットを依頼した[4]。井筒監督は「ストリップショーのシーンのカットは残念だったが、それ以外は自由に楽しく撮影した」と発言している[4]。
エピソード
この映画の企画には、「志穂美悦子を主演として起用すること」もその前提に含まれていた[10]。
この映画は「緋牡丹博徒シリーズ」のオマージュである。なお、学生時代のつかは『緋牡丹博徒シリーズ』の大ファンだった[10]。