二・二六事件
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注釈^ 永田鉄山は当時は陸軍歩兵中佐であった[3]。のちに首相となる東條英機も統制派であるが、当の永田鉄山によれば統制派は明確な派閥としては存在しなかった[要出典]。
^ 日本においては明治維新前後から、政治的理由による暗殺は「斬奸」と呼ばれ、その理由を書いた斬奸状を付すことが通例であった。大久保利通暗殺事件などに斬奸状が付されている。
^ 当時の総理大臣の年俸が8,000円であったことから、年額2万円は相当な額であると大谷敬二郎は書いている[32]
^ 菅波三郎が満洲にいるとき、辻政信武藤章が訪ねてきて、永田鉄山の傘下に入れば優遇すると言ってきた。断ると陰に陽に圧迫が加わってきた[44]
^ 2人を行政処分によって、免官とした。陸軍の内規によると、将校は身分保障制度があり、受恩給年限に達する前には行政処分による免官はできない。裁判によるべきこととなっていた。2人はこの処分を、非合法なりとして反対し、われわれは、軍の改革を叫んでも非合法手段はしないという方針だったが、上で非合法をやるなら、俺たちも非合法を採らざるを得ないというにいたった、と荒木貞夫は述べている[46]
^ 事件後岳父の本庄大将に宛てて「三年ばかり前に私はある勧誘を受けました。それは万一、皇道派の青年将校が蹶起したら、これを機会に、青年将校および老将軍連中を一網打尽に討伐して軍権政権を一手に掌握しようという大策謀であります。計画者は、武藤章片倉衷、それから内務省警保局菅太郎であります」という文章を書き送った[33]
^ 教育総監更迭
^ 1935年12月ごろ、ある青年将校は山口大尉に「我々第一師団は来年の三月には北満へ派遣されるんです。防波堤の我々が東京を空にしたら、侵略派の連中が何を仕出かすか知れたものじゃありません。内閣がこう弱体では統制派の思う壷にまた戦争です。我々は今戦争しちゃ駄目だというんです」と述べている[63]
^ 幕僚らの中には、戦争こそ勲章や立身出世を勝ち得る大切な道具と考える者がおり、殊に満洲事変で一部の者が旭日章金鵄勲章を釣り出してから、彼らの眼玉の光は異常に輝き出した[64]
^ 児島襄の「天皇III」(文春文庫、新版カゼット出版 2007年)では、野中の遺書をもとに村中孝次が草案を書き上げ、西田税が村中と話し合って3分の2ほどに縮小修正したとなっている。
^ 山下奉文少将は決起趣意書の草案を見ており、筆まで加えたと栗原安秀は述べている。
^ a b 内閣嘱託、内閣総理大臣秘書官事務取扱[10]
^ 首謀者たちはかなり以前から、実弾演習の際に薬莢の員数確認をごまかしたりして実弾を隠匿し、決起に備えていたが、それだけで足りるはずもなく、歩兵第3連隊は首謀者である安藤が週番司令であったのでその命令によって武器弾薬を調達し、歩兵第1連隊の場合は山口の黙認のもとで栗原らが弾薬庫警備の下士官らを脅し、軟禁して武器弾薬を用意している。
^ 岡田首相と姻戚関係にある丹生中尉が襲撃前に耳打ちした事実がある[33]
^ 池田俊彦の「生きている二.二六」(文藝春秋 1987年)では、女中部屋に料理番の老人が風邪のため寝ているという知らせがあったとあり、筆者が見廻りの最中に女中部屋の押入れの中に老人を確認している。
^ 作家松本清張の『昭和史発掘』によれば、特別警備隊の存在は決起部隊にとって問題にはならぬ存在であり、警視庁に大部隊をあてた真意は宮城の占拠にあったのではないかとしている。同書によればその根拠として、
帝都に異常事態が発生した場合に宮城守備の増援につく当番部隊が、決起の日にあわせて中橋の部隊であったこと。(異常事態の発生など滅多にあることでは無いので、増援当番部隊の決定は連隊内でやりくりできた)

高橋是清を襲撃した後ただちに宮城内に入った中橋が手旗信号をもって警視庁の部隊と連絡を取ろうとして取り押さえられた事実(その後、中橋は部下を残して単独で脱出)
を挙げている。時期尚早、実現困難として最後まで決起に慎重であった安藤が決断したのは、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊の週番司令が山口と安藤自ら、宮城警備の当番が中橋で、皇居坂下門の目と鼻の先の警視庁に、自分が参加することによって大部隊を配置する計画を立てられたからではないか、と述べている。
^ 現在は跡地に中央合同庁舎第3号館が置かれている。
^ 真崎教育総監罷免事件
^ 走り書きには「今出たから、よろしく頼む」とだけ書いてあった[79]
^ 当時学習院高等科の二年生だった黒木従達(後に東宮侍従長)は、二・二六事件が起こる前夜、級友の木戸孝澄(木戸幸一の長男)から「今夜あたりからいよいよ決戦になるらしいぞ」と電話を受けたという[83]
^ 真崎大将の護衛憲兵として真崎の身辺にあった渋谷憲兵分隊の金子憲兵伍長の報告書によると、午前7時15分に陸相官邸到着、午前8時20分、伏見軍令部総長宮邸に到着。また午前8時10分陸相官邸表玄関を出た際、磯部が片倉に拳銃を発砲し、拳銃を落とした後軍刀で殺害しようとしていたので、真崎大将と古荘次官が「同士討ちはやめ」と発言、制止した[84]
^ 当時の麹町区永田町一ノ一。叛乱軍が占拠していた。
^ 児島襄「天皇III」では天皇は「事件を鎮定せよ」と陸相に述べた後に「速やかに暴徒を鎮圧せよ」と再度声を掛けている。2つめの発言では部隊を「暴徒」と明確にしている。
^ 軍事参議官にはこのような告示を出す権限がなかったので川島陸軍大臣の承諾を得て告示として出された。なお、原文には閣僚と協議した旨の記述があるが、実際には協議されていない。
^ この際、川島陸相の辞表の内容が他の大臣と同じであったことに天皇は不快感を示している。
^ 北は第5回公判で、「被告は真崎に一任して『法案』の実現を企図したのではないか」との法務官の追及に対し、「ただ時局収拾に関し一般にも青年将校にも信頼の厚い同大将が適当と感じたるのみであります」と答えた。
^ 一部青年将校は台湾軍司令官として任地にある柳川中将を内閣首班として要求していたという。
^ 前日午前中、高松宮より電話連絡を受けていた。
^ 午前3時頃大久保弘一少佐が勧告ビラの撒布を思い付き、午前中いっぱい時間の猶予をもらうことを8人の軍事参事官にお願いし、寺内大将が戒厳司令官に交渉したという[107]
^ 近衛師団所属の飛行機3機を戒厳司令部直轄とした上で午前7時55分に羽田から発進させた。上空からビラを撒くのみならず、威嚇飛行も行わせたという。
^ NHK放送博物館東京都江戸東京博物館で聴くことが出来る。ビラと若干内容が違い「帰順すれば罪は赦される」の文が入っており、事件後陸軍刑法違反ではないかと問題視された。
^ 午前8時30分頃、反乱軍の兵士の家族との昨夜からの騒動の情報が戒厳司令部にもたらされ、根本博大佐が大久保弘一少佐にラジオ放送をするよう命じ、大久保は一気呵成に書きなぐった。このラジオ放送は承認無し・誰がいつの間にやらせたのかも全く分からない、と一時問題になり、越権行為だという声もあったが、この放送に対する感謝感激の手紙が全国から1600通戒厳司令官に届いたという[107]
^ 1978年に全面改築され「航空会館」になっている
^ 部下がその瞬間制止したので手許が狂って失敗した。
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