ドルト会議以降、カルヴァン主義系統とアルミニウス系統の論争が続いていたが、自由主義神学(リベラル)が現れ、この敵に立ち向かうために、福音陣営において両者の論争は沈静化した[7] 。日本においてもリベラル派の聖書観に対抗し、聖書信仰に立つカルヴァン主義者とアルミニウス主義者が協力して聖書信仰運動を展開した。[8] 協力が結ばれたのは、新正統主義のカール・バルトの聖書観に対する反発があったことも指摘される。[9] マックス・ヴェーバーは論文「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で、カルヴァン派の予定説が資本主義を発達させた、という論理を提出した。 救済にあずかれるかどうか全く不明であり、現世での善行も意味を持たないとすると、人々は虚無的な思想に陥るほかないように思われる。現世でどう生きようとも救済される者は予め決まっているというのであるなら、快楽にふけるというドラスティックな対応をする者もありうるはずだ。しかし人々は実際には、「全能の神に救われるように予め定められた人間は、禁欲的に天命(ドイツ語で「Beruf」だが、この単語には「職業」という意味もある)を務めて成功する人間のはずである」という思想を持った。そして、自分こそ救済されるべき選ばれた人間であるという証しを得るために、禁欲的に職業に励もうとした。すなわち、暇を惜しんで少しでも多くの仕事をしようとし、その結果増えた収入も享楽目的には使わず更なる仕事のために使おうとした。そしてそのことが結果的に資本主義を発達させた、という論理である。 予定説はキリスト教の全ての教派で受け入れられている訳ではなく、プロテスタントの幾つかの教派で受け入れられてはいるものの、最大の信徒数をもつローマ・カトリック教会や、東方教会で最大の教派である正教会では受け入れられていない教説である。 予定説は正教会には全く受け入れられていない[10]。既に17世紀の1672年にエルサレム総主教ドシセオス2世が召集したエルサレム公会で、他のカルヴァン主義の教説(信仰義認など)とともに予定説は否定された。なお、この公会においては、カルヴァン主義のみならずローマ・カトリックとも距離が取られている[11]。正教会における救いの概念については共働を参照 カトリック教会では予定説は、トリエント公会議で異端として排斥された。
予定説と資本主義
予定説を批判し受け入れない教派
脚注^ 参考:ローマ人への手紙(ロマ書)8:29、9:15など
^ マーティン・ロイドジョンズ『試練の中の信仰』いのちのことば社
^ ジャン・カルヴァン『キリスト教綱要』改革派教会
^ アリスター・マクグラス『宗教改革の思想』教文館p.103-106
^ マクグラス『キリスト教神学入門』教文館p.608-610
^ ⇒2.アルミニウス主義の台頭 - Ichinomiya Christian Institute Server
^ 宇田進『福音主義キリスト教と福音派』いのちのことば社
^ 日本福音同盟『日本の福音派』いのちのことば社
^ 日本キリスト改革派教会歴史資料編纂委員会『日本基督改革派教会史』
^ 神学博士マカリイ著・上田将訳『正ヘ定理神學
^ ⇒Cyril Lucaris (Encyclopadia Britannica)
関連項目
プロテスタント正統主義
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神
アウグスティヌス
ジャンセニスム
マルティン・ルター
カルヴィニズム
アルミニウス主義
ペラギウス主義
メソジスト
ウエスレアン・アルミニアン神学
カール・バルト
選民
定命 (イスラム教) - ムスリム(イスラム教徒)が信じなければならない六信の一つ。
カトリシズム(普遍教会主義)
モリナ主義
義認論
小室直樹 - ヴェーバーを祖述する立場からよく予定説について著作で触れたが、その中で「日本人にはどうしても理解されにくい説である。講義で学生に説明した時など『善人悪人に関係なく誰を救済して誰を救済しないか事前に予定している神など淫祠邪教のたぐいではないか、役に立たないから退治してしまえ』と言われた」と述べている(たとえば山本七平「勤勉の哲学」PHP文庫の解説、P352?353)
歴
カルヴァン主義
人物
カルヴァン・ メランヒトン・ ノックス・ カイパー・ 植村正久・ 小野村林蔵・ 浅野順一・ 植村環・ 佐波亘・ ウォーフィールド・フルトン・ メイチェン・ ヴァン・ティル・ 岡田稔・ 常葉隆興・ 田中剛二・ 松尾武・ 春名寿章・ 渡邉公平・ 小畑進・ 宇田進・ 丸山忠孝