早大在学中に三島在住であった映画監督五所平之助(当時日本映画監督協会理事長)の書生を務め、映画製作を経験。五所の助言によりテレビ業界を志す[3]。読売テレビ解説委員を務めた辛坊治郎は、大学の同期で、共に同じ年にフジテレビを受験している。
1980年、フジテレビに入社。同期には『報道2001』元キャスターの黒岩祐治(現神奈川県知事)、『ニュースJAPAN』元キャスターの松本方哉、福島テレビ社長の横山淳、北海道文化放送常務取締役編成局長の本間欧彦、フリーアナウンサーで女優の山村美智、現実業家の坂野尚子らがいた[4]。
入社後すぐに編成部に所属。1983年には映画『南極物語』のキャンペーンでタロとジロの世話係であった[5]。
1986年10月からの『タッチ』第4部(上杉達也3年夏の甲子園編。この時の直属の上司は1980年代にアニメ・テレビドラマなどに多大な影響を及ぼした岡正)を手始めに、アニメ版『陽あたり良好!』(1987年)、『季節はずれの海岸物語』(1988年)、『青春オーロラ・スピン スワンの涙』(1989年)、『いつも誰かに恋してるッ』(1990年)、『花迷宮?昭和異人館の女たち?』(1990年)など、ドラマやアニメの企画・プロデュースを手がける。なお、フジテレビ入社から現在に至るまでディレクター・監督として演出を務めた経験は一切ない。
1990年4月にテレビドラマを作る第一制作部(現・ドラマ制作センター)に移り、月9など、テレビドラマのプロデュースを手がける(下記参照)。1994年正月には『あおげば尊し 先生、元気ですか! 一緒に笑って、泣いたあの時を私たちは忘れない たくさんの愛の思い出をありがとう…』の総合プロデューサーを務める。
1997年7月、自らも最終話に出演した『踊る大捜査線』のヒットで編成部に部長として復帰[6][7]。1999年には関連番組である『愛する二人別れる二人』のやらせを黙認していた事が発覚、同番組は打ち切りになっている。2001年10月には編成制作局長に。2002 FIFAワールドカップの日本vsロシア戦の放送権を引き当て[8]、「神の手」ならぬ「亀の手」と呼ばれる。この試合はサッカー日本代表にとって2002 FIFAワールドカップ本戦での初勝利の試合となり、視聴率も平均66.1%、瞬間で81.9%を記録した。
2003年7月、新設された映画事業局の局長に就任。2006年6月には執行役員、2010年6月には取締役、2012年6月には常務取締役とフジ・メディア・ホールディングス取締役に就任[9]。
2004年夏の『お台場冒険王2?レインボーブリッジは封鎖するな!!?』では初イベントプロデューサー。2005年にはフジテレビ映画事業は日本で一番の利益率を誇り、全邦画興行収入の約30%を占めるほどであった。この収入はフジテレビ全体の収入にも貢献しており、フジテレビは史上最高益を記録した。
2012年1月17日、ベンチャーキャピタル事業の新会社「フジ・スタートアップ・ベンチャーズ」の代表取締役に就任した。
2013年6月27日、豊田皓の後任として、第9代フジテレビ代表取締役社長に就任した[10]。
2013年10月、視聴率低迷に悩むフジテレビの抜本的大改革のため、看板番組で2014年春改編で約32年間の長きに渡り続いた長寿生放送番組の『森田一義アワー 笑っていいとも!』(1982年10月4日放送開始、2014年3月31日放送終了)の番組終了を決断[11]。