九段
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明治以後、段差を廃して坂道となったが、見上げるような急傾斜であった[7]ため、荷車を上げることは相当困難であった。そこで、食い詰めた人々が「立ちん坊」とよばれる人足となって九段坂下で待ち受けており、荷車を押すことによってなにがしかの報酬を得ていたという。

市電を建設する際にも、当時の技術では九段坂の急傾斜に線路を敷設することは不可能で、堀端の牛ヶ淵沿いに緩勾配の専用軌道を設置して、ようやく電車を九段上まで通すことができた。

1925年(大正14年)4月、東京市の復興事業の一つとして位置づけられた九段坂の改修工事が始まる。工事は九段坂の勾配(約九分の一)を緩和するために、俎橋より九段坂中腹まで陸橋構造とし、九段坂中腹から坂上までは道を掘り下げるものとなった[8][9]

九段坂のシンボルとなっている「常灯明台」は、1871年(明治4年)に通りの北側、靖国神社入口(旧偕行社日本住宅公団本部跡)に設置されたが、1930年(昭和5年)に震災復興計画による靖国通りの拡幅にともない、通りの南側、田安門入口に設けられた九段坂公園の現在地に移された。旧地であれば、江戸城内堀を通して大手町方面を一望する位置にあり、東京湾から見えたという伝承もうなづける。[10]
ギャラリー

東京市長で震災復興長官の堀切善次郎の決断で削られた九段坂。後方に靖国神社の鳥居。昭和初期

コンクリート舗装された九段坂。手前に靖国神社の祭灯。昭和初期

九段坂の図(『風俗画報』177号「東京名所図会・麹町区之部中」口絵、1898年)

九段坂公園の常灯明台
(右後方は田安門渡櫓と武道館)

脚注[脚注の使い方]^ 旧平川。江戸時代には神田川が新たに開削されてお茶の水方面に本流が移り、切り離された下流域(日本橋川)は俎橋の先で「堀留」となっていた。明治以後、再び飯田町の旧流域を開削してつながる。
^ 坪内祐三『靖国』(新潮社、1999年)
^ 『富士見地区“まちの記憶・まちの暮らし”探索ガイドブック』(富士見地区町会連合会コミュニティ活性化事業実行委員会〈千代田区役所富士見出張所〉編、2011年)
^ 1933年(昭和8年)4月25日東京市告示第216号、東京市?町区『麹町区史』1295ページ、1935年
^ 1967年(昭和42年)1月19日自治省告示第13号「住居表示が実施された件」
^ 江戸名所図会 九段坂.
^ 現在の実践倫理宏正会本部あたりまで丘の上となっており、そこから九段下まで一気に下降する坂道であった。縄文時代には坂の下が波打ち際であり、丘の上には貝塚が形成された。「牛ヶ淵貝塚」の記念碑が九段会館構内に現存する。
^ 「九段坂の急勾配を改修する工事近く開始」『東京日日新聞』1925年4月22日(大正ニュース事典編纂委員会 『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.492 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
^ 震災復興計画の中で、靖国通りが新たに拡幅・整備され、九段坂も緩勾配に直された。現在九段上から九段下まで続く靖国通りに面する靖国神社の石垣は、この時に造成されたもので、旧地形は石垣の上面にあたる。このとき、拡幅され、緩勾配となった九段坂には、靖国神社の参道と同時にイチョウ並木が造成されたが、落葉が市電の軌道に詰まり、その油分で電車が空転して坂を上がれなくなったことから、並木は半分撤去されたという。
^ 九段坂の常灯明台は、もともと灯台として造られたのではなく靖国神社への献灯として建てられ、後に造られた鋼管製の巨大な一の鳥居とともに、遠方から目印となるように考えられたものである。九段坂上は、江戸時代から観月や、隅田川の花火を見渡せるビューポイントとして有名であった。

参考文献

斎藤長秋 編「巻之二 天枢之部 九段坂」『江戸名所図会』 一、有朋堂書店〈有朋堂文庫〉、1927年、90-91頁。NDLJP:1174130/51。 

関連項目

九段下駅

九段会館 - 現在は使用中止

九段下ビル - 現存せず

井上陽水 - 1998年発売のアルバム名が「九段

ホテルグランドパレス - 現存せず

外部リンク

九段坂 - 千代田区観光協会


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