九条道家
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道家は次の天皇として順徳上皇の皇子で縁戚に当たる岩倉宮忠成王を推薦したが、北条泰時はかつて承久の乱に積極的に加担した順徳上皇[注釈 5]の子孫から天皇を擁立することに強硬に反対したため、これは実現せずして終わった。なお、順徳上皇の兄の土御門上皇は承久の乱に関与しなかったため、その皇子の邦仁王(後嵯峨天皇)が四条天皇の後を受けて践祚することとなった(仁治三年の政変)。

その後、次男の二条良実が祖父の公経の後押しもあって関白となったが、祖父の後ろ盾でなったことを見てもわかるように、後嵯峨天皇の下で公経と土御門定通(天皇の大叔父)が政治の実権を握った一方で、天皇家との関係を失った道家の実力は衰退していた。また、公経は独断で自分の孫娘である西園寺?子を後嵯峨天皇の中宮に立て、その母方の叔母にあたる四条灑子を良実の室にすることで道家と距離を置き始める。

だが、寛元2年(1244年)8月に公経が死去すると、道家は勝手に公経の遺言と称して関東申次の職を継承(ただし、公経の生前から「将軍の実父」として公経とともに関東申次の職務にあたっていたとする説もある)し、さらに寛元4年(1246年)1月には次男の良実を排除して(道家と良実は不仲で、良実は父から義絶されていた)、寵愛する4男の一条実経を関白として擁立する(後深草天皇践祚後は摂政に転じる)。しかも独断で関東申次を3人制として実経と近衛兼経を任命するなど、朝廷内での権勢を取り戻す。だが、このような独断専行を見せ始めたために次第に朝廷における信望を失っていった。また、幕府に対しても将軍の実父である事を理由にその政策への干渉を始め、北条氏得宗家に反発する北条一族や御家人達の支持を集めた事から、幕府側からも危険視されるようになっていった。
失脚、最期

寛元4年(1246年)閏4月から6月に執権北条時頼下で起きた名越光時らの陰謀に、将軍辞任後も大殿として息子の将軍藤原頼嗣を後見していた頼経が関与していた事が発覚し、頼経は7月に京へ追放された(宮騒動)。それに対する連座に加えて、道家が親しくしていた雅成親王(後鳥羽天皇の皇子で承久の乱後但馬国に流されていた)が幕府によって一時帰京を許された折に、後嵯峨上皇と後深草天皇を排して同親王を皇位に就けようとしていたとする容疑[注釈 6]によって、道家は10月に関東申次の職を罷免(公経の子・西園寺実氏に交代)され、実経も翌寛元5年(1247年)1月に摂政を罷免させられた。これにより道家は政治的立場を完全に失った。なお、名越の陰謀にも関与していた三浦光村宝治元年(1247年)6月の宝治合戦で兄の泰村と共に北条執権方に討たれた際に「九条頼経殿が将軍の時、その父九条道家殿が内々に北条を倒して兄泰村殿を執権にすると約束していたのに、(名越の陰謀の時に)泰村殿が猶予したために今の敗北となり、愛子と別れる事になったばかりか、当家が滅ぶに至り、後悔あまりある」と悔やんだとされていることから、一連の「反得宗家」の陰謀に道家自身が積極的に関与していた可能性も指摘されている。

さらに建長3年(1251年)末、了行ら宝治合戦残党の幕府転覆計画が発覚し、それに道家や頼経が関係しているという嫌疑がかかる。翌建長4年(1252年)、孫の頼嗣は将軍職を解任されて京へ追放され、道家はその中で2月21日に死去してしまった。享年60。策謀が頓挫したばかりか鎌倉幕府側に謀議が露見し、時頼からの追及を受けて晩年は憔悴しきっていた。

死因は病死と言われているが、頼嗣失脚の報を聞いてそのまま卒倒して死去したとする説や、隠然たる影響力を持つ道家の存在を苦々しく思った幕府によって暗殺されたとする説もある。
官歴

※日付=旧暦

1203年建仁3年)2月13日、元服し、正五位下に叙位。禁色を許される。3月2日、侍従に任官。7月8日、左近衛中将に転任。12月20日、従四位下に昇叙し、左近衛中将如元。

1204年(建仁4年)1月13日、播磨介を兼任。改元して元久元年4月13日、従四位上に昇叙し、左近衛中将・播磨介如元。

1205年元久2年)1月9日、従三位に昇叙し、左近衛中将如元。3月9日、権中納言に転任し、左近衛中将如元。8月9日、正三位に昇叙し、権中納言・左近衛中将如元。

1206年(元久3年)1月6日、従二位に昇叙し、権中納言・左近衛中将如元。5月30日、橘氏長者宣下(藤原氏が兼帯する例)。6月16日、左近衛大将を兼任。左近衛中将を去る。

1207年建永2年)1月5日、正二位に昇叙し、権中納言・左近衛大将・橘氏長者如元。2月10日、中納言に転任。左馬寮御監を兼任か?。左近衛大将・橘氏長者如元。

1208年承元2年)7月9日、権大納言に転任し、左近衛大将・左馬寮御監・橘氏長者如元。

1212年建暦2年)6月29日、内大臣に転任し、左近衛大将・左馬寮御監・橘氏長者如元。

1215年建保3年)12月10日、右大臣に転任し、左近衛大将・左馬寮御監・橘氏長者如元。

1218年(建保6年)2月26日、左近衛大将・左馬寮御監を辞す。11月26日、東宮(のちの仲恭天皇こと、懐成親王)傅を兼任。12月2日、左大臣に転任し、東宮傅・橘氏長者如元。

1221年承久3年)4月20日、摂政宣下。藤原氏長者宣下。橘氏長者を止むか?7月8日、摂政・藤原氏長者を止む。

1222年(承久4年)、橘氏長者宣下。

1228年安貞2年)12月24日、関白宣下。12月27日、藤原氏長者宣下。橘氏長者を止むか?

1231年寛喜3年)7月5日、従一位に昇叙し、関白・藤原氏長者を辞す。

1235年文暦2年)3月28日、摂政宣下。藤原氏長者宣下。

1237年嘉禎3年)3月10日、摂政・藤原氏長者を辞す。

1238年(嘉禎4年)4月24日、准三宮宣下を固辞。4月25日、出家。

1252年建長4年)2月21日、薨去。享年60


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